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尾池義辰[おいけ よしたつ] 尾池 義辰(おいけ よしたつ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士で、初め生駒氏、後に熊本藩主細川忠利の客将。足利氏一族といわれる。 讃岐国生まれで、当初は讃岐国高松藩藩主家生駒氏家臣。後に熊本藩藩主の細川忠利の客将となり、出家して入道道鑑と号す。子は尾池伝右衛門(のち西山至之)、尾池藤左衛門、尾池官兵衛。諱は義辰、同じく熊本藩家臣の津川辰珍はこの偏諱(「辰」の字)を賜ったとされる。また「姓氏家系大辞典」では諱を「保耀(やすてる、表記は保輝とも)」としている。通称は玄蕃。一般では尾池玄蕃として知られる。「三百藩藩主人名事典 第七巻」の表記では『足利義辰入道道鑑』と表記されている。なお、「系図纂要」では登場しない。 「姓氏家系大辞典」では養父を本姓桓武平氏(平頼盛後裔を自称する)の尾池光永(嘉兵衛、玄蕃)とする。 == 経歴 == 大田亮の「姓氏家系大辞典」では『全讃史』の説をとり、室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏〔仮にこの説が本当なら義輝正室は近衛氏なので、側室と思われる。〕との遺児という。永禄8年(1565年)に父の義輝が三好三人衆及び松永久秀らに暗殺された(永禄の変)時、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて、讃岐国の豪族で横井城主の尾池光永に匿われ、ほどなくして烏丸氏は義辰を出産し、義辰は尾池氏養子となる。後に讃岐国の大名生駒氏に仕え、2000石を拝領した。後に2000石の内、1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えられるという。また末子の尾池官兵衛は西讃岐に残る。 また、「三百藩家臣人名事典7」〔なお同書の熊本藩の執筆は執筆年当時、熊本大学文学部教授であった松本寿三郎による執筆〕では義輝の弟である足利義昭より下の弟としている。かつて義輝や義昭に仕えた細川藤孝(幽斎)の孫にあたる細川忠利に招かれて100人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に肥後国熊本藩に下り、それぞれ1000石拝領される。後に長男の伝右衛門は西山至之(右京)と改称したという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾池義辰」の詳細全文を読む
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