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尾藤景氏 : ウィキペディア日本語版
尾藤景氏[びとう かげうじ]

尾藤 景氏(びとう かげうじ)は、鎌倉時代中期の武士北条氏得宗家被官である御内人
尾藤氏藤原氏秀郷流の流れを汲み、元々の本貫地は、紀伊国北部の田仲・池田庄〔現和歌山県紀の川市〕だったようで、歌人として有名な西行の出身氏族である同庄を拠点としていた佐藤氏と同族であった〔阪本401 〕。
『尊卑分脈』の尾藤系図などによると、景氏は3代執権北条泰時によって得宗家初代家令に任命された叔父の尾藤景綱の養子となり尾藤氏を継承したとされる〔細川200-201 〕。5代執権北条時頼の没する弘長3年11月22日1263年12月24日)以前には出家していたようで浄心と号した。寛喜2年(1230年)、御行始の馬引を北条光時と共に担当したという記述を皮切りに、延応2年の藤原頼嗣生誕50日目の祝賀や〔吾妻鏡1240年3月7日の記述〕、寛元3年の檜皮姫の入内〔同、1245年7月26日の記述、景氏は伺候人として参列。〕など、弘長3年(1263年)まで7回『吾妻鏡』にその名を見せる。
寛元4年(1246年)、泰時の邸宅が新築された際、養父の景綱と同様に、敷地内の南門東脇に住居を構えており、同年6月10日1246年7月24日)には、執権と一部の有力者のみで構成される秘密協議〔寄合。〕「深秘の御沙汰」にも参列を許される〔同、1246年6月10日の記述〕など、景綱や諏訪盛重らと共に、幕府の中枢で政治の舵取りを行う寄合衆に任じられていた。弘長3年(1263年)の北条時頼臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の中の一人でもある〔同、1263年11月20日の記述〕。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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