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尾辻克彦 : ウィキペディア日本語版
赤瀬川原平[あかせがわ げんぺい]

赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本前衛美術家、随筆家、作家。本名、赤瀬川克彦。純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある〔苗字「尾辻」は父方の親戚の苗字に由来。『全面自供』晶文社より。〕。神奈川県横浜市中区本牧町生まれ。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。
兄は直木賞作家の赤瀬川隼。姉の赤瀬川晴子は帽子作家。また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。姪(隼の長女)は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人〔川本武ほか『本棚が見たい!2』p.48(ダイヤモンド社1996年)〕。
2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めていた。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
父親は鹿児島県出身で倉庫会社勤務のサラリーマン。「赤瀬川骨茶」という俳号で俳句も詠んだ。母親は東京府出身。原平は6人兄弟姉妹の下から2番目。兄弟はみな芸術的なことが好きで、原平はとくに絵が好きだった。一家は父親の転勤であちこちに移り、原平は幼稚園時代から大分県大分市で育つ。寝小便の癖がなかなか治らず、完全に治ったのは中学3年だった。「おねしょは中学2年生まで毎晩のようにしていて、自分の運命を憎み、死んでしまいたいと思っていた」というコンプレックスが自意識を目覚めさせたと書いている〔NHK2006年放送「知るを楽しむ 人生の歩き方」〕。
1945年、大分市立金池小学校3年生の時に敗戦。父親は職を失い、母親の内職を一家で手伝う。
小学生時代、絵が好きな雪野恭弘(のち画家)と親友になる。雪野とは、大分市立上野ヶ丘中学校時代、そして、武蔵野美術学校でも同窓として交際が続く。中学時代の転校生には、のちにソ連問題の専門家になった木村汎山村美紗の弟)がいる。
5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていた。原平が中学生の時、磯崎が創立していた絵の同好会「新世紀群」に雪野とともに参加。ここで4歳年上の吉村益信と知り合う。
大分県立大分舞鶴高等学校に進学して2ヶ月後、一家は名古屋に引越しし、愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。油絵を習う。同級生に荒川修作岩田信市(のち画家、演出家)がいた。
吉村益信の勧めで、吉村が進学した武蔵野美術学校油絵科に進む。だが、仕送りは2ヶ月でとまり、サンドイッチマンのアルバイトで食いつなぐ。アルバイト仲間からは、本や映画について学んだ。
1956年には、上京していた姉・晴子と一緒に住み、姉のさそいで、砂川基地反対闘争に参加する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤瀬川原平」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Genpei Akasegawa 」があります。



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