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尾高城(おだかじょう)は、鳥取県米子市尾高にある中世の日本の城(平山城跡)で、泉山城(いずみやまじょう)とも呼ばれる。 == 概要 == 標高40mの河岸段丘上にあり、背後に大山、眼前に箕蚊屋(みのかや)平野が広がる。戦国時代、西伯耆の要衝であり、尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となった。 米子勤労総合福祉センター「米子ハイツ」建設に先立ち、1974年から発掘調査が実施された。出土遺物は13世紀から16世紀にかけての、輸入・国産陶磁器類、古銭、笄、刀子などである。戦国時代の西伯耆の中核的な城跡として、一部は保存整備され、米子市の史跡に指定されている。 == 歴史 == * 大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。城主行松正盛は流浪し、尼子方の吉田光倫が城主となる。(伯耆民談記) * 永禄5年(1562年)、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、行松正盛が再び城主となる。 * 永禄7年(1564年)、行松正盛病死し、毛利家臣の杉原盛重が城主となる。 * 永禄12年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛らにより、一時城を奪われる。(陰徳太平記) * 天正9年(1581年)、杉原盛重、八橋城において没す。(家督は嫡男元盛)(伯耆民談記) * 天正10年(1582年)、伯耆国佐陀(現在の米子市淀江町佐陀)に在る杉原景盛、兄元盛を謀殺する。 * 同年、杉原景盛、毛利氏に攻められ戦死。吉田元重、尾高城に在番。 * 慶長6年(1601年)、伯耆国領主中村一忠、一時尾高城に入るが、米子城へ移り、廃城となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾高城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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