|
山辺の道(やまのべのみち)は大和の古代道路のひとつで、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の春日山のふもとまで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に通ずる古道。山の辺の道とも表記される。 == 概説 == 『古事記』では崇神天皇の条「御陵は山辺の道の勾の岡の上に在り」、同じく景行紀には「御陵は山辺の道上に在り」とある。 乃楽山(奈良山)で討たれた平群鮪を追う影媛(物部麁鹿火の娘)の悲しみを詠んだ歌に「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ …」とあり(武烈天皇即位前紀)、布留(ふる)・高橋・大宅・春日・佐保を経て乃楽山に至っているが、山辺の道の延長であろう〔角川書店『角川日本地名大辞典 29 奈良県』 1138-1139頁〕〔平凡社『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 28-29頁〕。 この道は奈良から石上・布留(天理市)を経て三輪(桜井市)に通じていたとみられるが、しだいに西側の上ツ道が多く用いられるようになった〔。 この山辺の道は、弥生時代後期には、布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道であったとも推測されている。 その全長は約35kmであるが、その南部に古道の痕跡や景観が残り〔、現在一般的にハイキングコースとして親しまれるのは天理市の石上神宮から桜井市の大神神社付近までの約15kmの行程で、その多くは東海自然歩道となっている〔『大和を歩く-ひとあじちがう歴史地理探訪』 178-180頁〕。 また、山の辺の道は、山林、集落、田畑の間を縫うように通っている〔。田畑の間を抜ける際にはその眼下に奈良盆地が大きく開けており、生駒山や二上山〔、そして葛城・金剛の連嶺を背景にした大和三山なども遠望できる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山辺の道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|