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山元春挙 : ウィキペディア日本語版
山元春挙[やまもと しゅんきょ]
山元 春挙(やまもと しゅんきょ、明治4年11月24日1872年1月4日) - 昭和8年(1933年7月12日)は、明治から昭和初期にかけ活動した円山四条派日本画家。本名は金右衛門。幼名は寛之助。別号に円融斎、一徹居士。竹内栖鳳と共に、近代京都画壇を代表する画家である。
== 伝記 ==

滋賀県滋賀郡膳所町(現在の大津市中庄付近)で生まれる。祖父は、戦前の修身教科書で勤勉な商人の鏡として紹介された高田善右衛門。
打出小学校卒業後、12.3歳で遠縁にあたる京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年(1885年)文挙の師森寛斎に学ぶ。翌年の京都青年絵画共進会に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受ける。明治24年(1991年)、竹内栖鳳菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。同年、京都私立日本青年絵画共進会の審査員となり「黄初平叱石図」(西宮市大谷記念美術館蔵)を出品、二等賞銀印となる。明治27年(1994年)に師寛斎が亡くなり、同年如雲社の委員となる。明治32年(1899年京都市立美術工芸学校の教諭となる。翌年、画塾同攻会(1909年に早苗会と改称)を組織し、展覧会を開く。明治34年(1901年)第7回新古美術品展に出品した「法塵一掃」が1等2席となり、春挙の出世作となる。
明治40年(1907年文展開設にあたり、竹内栖鳳らと共に審査委員を命ぜられる。大正6年(1917年)6月11日帝室技芸員に任命される〔『官報』第1458号、大正6年6月12日。〕。同年、故郷の近くに別荘蘆花浅水荘(国の重要文化財)を営み、のち庭内に記恩寺を建立、寛斎と父の像を安置した。大正8年(1919年帝国美術院会員となる。この頃、地元膳所焼の復興を目指し、初代伊東陶山岩崎建三らと新窯を開く。大正11年(1922年パリ日仏交換展に「義士隠栖」(三の丸尚蔵館蔵)・「秋山図」を出品し、サロン準会員となる。大正15年(1926年)フランス政府より、シュヴァリエ・ドラ・レジョン・ドヌール勲章を授与された。昭和3年(1928年大嘗祭後の大饗の席に用いる「主基地方風俗歌屏風」を制作する。昭和8年7月12日死去。享年63。15日従四位に叙せられた。戒名は奇嶽院春挙一徹居士。墓は等持院
画風は、四条派の伝統を受け継ぎつつも西洋の刺激を受け、墨彩や色彩表現を豊麗さへと徹底的に純化した表現に特色がある。こうした画風は、千總など絵を享受する京の大店に支持された。明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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