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山入師義 : ウィキペディア日本語版
佐竹師義[さたけ もろよし]

佐竹 師義(さたけ もろよし)は、南北朝時代武将常陸守護佐竹貞義の七男で佐竹義篤の異母弟。母は側室二階堂頼綱の女。山入佐竹氏国安氏の祖。
== 生涯 ==
足利尊氏建武政権と戦うために上洛した際に兄とともに足利直義傘下に加わり、後に義篤が尊氏の命を受けて東国新田氏側勢力と戦うために帰国すると、師義はそのまま残留して尊氏・直義とともに九州に向かった後、多々良浜の戦い湊川の戦いで活躍する。以後、師義が尊氏に近侍して、義篤が領国経営にあたる体制が構築される。貞和元年/興国6年(1345年)の天龍寺落慶供養の際に後陣の随兵を務め、4年後の高師直と直義の対立の際には師直を支持した。また、連歌にも優れ『菟玖波集』にも所収されている。後に尊氏から常陸国山入を所領として与えられて山入氏の祖となった。
佐竹系図』(戸村本)には観応2年/正平6年(1351年)死去と伝えるが、『太平記』には翌年の碓氷峠での戦いをはじめとする観応の擾乱関連の戦いに参戦し、『源威集』では東寺合戦直前に足利尊氏と和歌について語る記事が載せられるなど、矛盾が多い。
これについて、近年加地宏江は師義の長男とされる言義について応永4年3月7日(1397年)没と記されながら、山入氏家督継承や具体的事績が見出せないことなどを指摘し、言義を師義の改名後の名乗りとして両者を同一人物とする説を唱え(この説自体は水戸藩の『常陸三家譜』でも指摘されている)、合わせて従来結城直光が著者とされてきた嘉慶年間成立の『源威集』の著者を師義とする説を唱えている〔加地宏江「源威集の作者について」(初出:『高野山大学論叢』第12巻(高野山大学、1977年)/所収:加地『中世歴史叙述の展開 -『職原鈔』と後期軍記-』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-02779-3 第Ⅱ篇第一部第二章「『源威記』の作者」)〕。
師義の子は他に与義自義小田野氏の祖)がおり、師義の後は与義が継いだ。与義は応永年間に佐竹宗家と対立し、約90年という長期にわたる佐竹一族の内乱の発端をつくった(山入一揆)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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