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山内上杉家 : ウィキペディア日本語版
山内上杉家[やまのうちうえすぎけ]
山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野越後伊豆守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内(鎌倉市山之内、現在でも「管領屋敷」の地名がある)に居館を置いたことに因む。
== 歴史 ==
正平18年/貞治2年(1363年)に足利尊氏の次男基氏が鎌倉に下向して鎌倉公方(関東公方)となると、憲顕は関東公方の執事(後の関東管領)となり、公方を補佐して関東の政務を取り仕切った。憲顕は観応の擾乱の際に足利直義方についたために上野・越後守護の地位を奪われて一時没落するが、尊氏の死後に基氏の懇願で関東管領に復帰、その口添えで罪を許されて上野・越後守護の地位を回復した。また、越後国の国衙領の半分及び上田荘・五十公郷などの所領を有しており、関東の所領は鎌倉公方、越後の所領は室町幕府の指揮下に置かれ、結果的に2人の主君を持つ事になった〔植田真平「山内上杉氏と越後上杉氏」(黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)〕。
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱の後、憲顕の兄弟から出た宅間上杉家犬懸上杉家が相次いで衰亡すると、山内上杉家は上杉氏の宗家となり、関東管領の職をほとんど独占し、上野を本拠に武蔵、伊豆に勢力を張った。また同時代に一族の上杉憲定の子上杉義憲が、常陸国佐竹氏の当主佐竹義盛の婿養子となり、佐竹義人(義仁)と名乗って佐竹氏の中興の祖となった。その際に養父の義盛の一族の佐竹与義が反乱を起こし、山内上杉家も佐竹氏の内乱に介入していたが、佐竹義人が関東公方足利持氏の傘下に入ると、義人の従兄の上杉憲実足利義教の傘下に入り、義人と対決した。
しかし、永享10年(1438年)永享の乱を境に鎌倉公方家との対立が決定的となり、その後の享徳の乱では事実上の敗北を喫してしまう。更には、文明7年(1475年)に始まった長尾景春の乱を契機に、憲顕の叔父重顕から出た扇谷上杉家家宰太田道灌の補佐のもと勢力を拡大し、山内家と並ぶ勢力となった。以来、山内と扇谷の両家は関東管領の座をめぐって数十年にわたり抗争を続けた(長享の乱)。
山内上杉家はこの戦いに勝利し関東管領の地位を守ったが、続いて越後守護代・長尾為景の反乱と上杉顕定の戦死による家督争い(永正の乱)が発生、この頃には、伊豆に興り相模を平定した新興の後北条氏の圧迫を受ける様になった。
関東管領上杉憲政は後北条氏に対抗するために扇谷家と和睦を結んだが、天文15年(1546年)の河越夜戦で大敗して勢力を急速に喪失し、天文21年(1552年)に上野を逃れて越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。永禄4年(1561年)3月、憲政は景虎を嗣子として家督と関東管領職を譲り、大名上杉氏の家名は長尾氏により存続することとなる。なお、この際に憲政は景虎に上杉氏の系図・重宝も譲ったが、後北条氏に憲政が上野を追われた際に失われたものも多く、系図は「上杉系図」・「上杉系図大概」の2種しか継承されず、“養子”である謙信は越後守護家の系図「御当方御系図(天文上杉・長尾系図)」を合わせても3種類の上杉氏系図〔「上杉系図」は憲政の父・上杉憲房が永正の乱中に作成させ、「上杉系図大概」は憲房の養父・上杉顕定長尾景春の乱中(文明8年頃)に作成させた山内上杉家の系図である。「御当方御系図」は天文21年の越後守護上杉家の断絶に際し守護代であった謙信が作成させた越後守護上杉家の系図で山内上杉家継承とは無関係な系図であった(片桐、2007年)。〕しか保持していなかった。そのため、謙信の後継である米沢藩では、江戸幕府の儒官である林道春に上杉氏の系図作成を依頼する〔莅戸善政『三重年表』寛永21年11月2日・12月23日条。〕などの系図の蒐集・編纂に努めることになった〔片桐昭彦「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」(初出:峰岸純夫 他編『中世武家系図の史料論』下巻 高志書院、2007年 ISBN 978-4-86215-030-1/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一二巻 山内上杉氏』戒光祥出版、2014年 ISBN 978-4-86403-108-0)〕。
その後、憲政は天正7年(1579年)の御館の乱の際に和睦交渉へ向かう途上で、上杉景勝方の兵士により討たれた。但し、憲政の孫・曾孫達の存在が江戸時代に確認される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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