|
山内 量平(やまのうち りょうへい、1848年9月5日〔『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、14頁〕(嘉永元年8月8日) - 1918年(大正7年)11月11日)は、明治時代に活躍した、日本福音ルーテル教会における日本人最初の牧師である。妹の季野は植村正久妻である。 == 来歴 == 嘉永元年8月7日(1848年9月4日)神職・山内繁憲の二男として、紀伊国日高郡北道村(現 和歌山県日高郡みなべ町)に生まれた。諱は憲孝、幼名は亮次郎。のち「量平」と改める〔。母は紀伊藩御典医・野上応聞の長女・三千代〔『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、15頁〕。山内家は醸造業「松屋」を営む素封家で、郷社「須賀神社」の祠掌に出仕する家柄であった。 長じて、紀州田辺藩の藩校・修道館の教師となり、明治維新以降は巡査部長として奉職するが、明治12年(1879年)父繁憲の死去に伴い官を辞して家業を継いだ。 明治14年(1881年)5月17日、紀伊国日高郡志賀村(現 和歌山県日高郡みなべ町)の庄屋川瀬六郎左衛門の娘・川瀬幹枝と婚姻。 のち税吏と諍いを起こして出荷停止の措置を受け、それが基で信用失墜と損失を蒙って零落するが、カンバーランド長老教会の宣教師J・B・ヘールと協力者大石余平の教えにより回心する。 明治17年(1884年)に洗礼を受けて、田辺教会の長老になる。明治20年(1887年)に東京に移り深川教会の長老になる。妹が日本基督教会の植村正久と結婚した関係で、植村正久の『日本論評』『福音新報』の出版を手伝う。 ルーテル教会の最初の宣教師ジェームス・シェーラーの日本語教師になる。シェーラーたちが佐賀の伝道に赴いたので、山内一家も同行する。養女・山内綾が鈴木直丸と結婚して、直丸が山内姓を名乗る。 明治27年(1894年)、マルティン・ルターの教義を和訳した『十字教会教理問答』を著わす。 明治32年(1899年)、山内量平と娘婿の山内直丸が按手礼を受けて、日本福音ルーテル教会の最初の牧師になる〔『日本福音ルーテル教会 教職・按手礼認定名簿(2012)』による〕。佐賀教会の教会創設に尽力する。明治38年(1905年)には博多の伝道に携わり、大正5年(1916年)に博多教会の会堂を建設する。大正6年(1917年)には大阪伝道を始め、天王寺村、大阪市南区烏森に講義所を建てる。しかし、体調を崩し翌大正7年(1918年)には伝道を引退し、9月18日に故郷の紀州田辺で昇天。享年71歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山内量平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|