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山南 敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、天保4年(1833年2月5日)- 元治2年2月23日(1865年3月20日))は、江戸時代末期(幕末)の武士・新選組隊士(副長、総長)。陸奥国仙台藩出身。諱は知信(とものぶ)。晩年は三南三郎を名乗っていた。 名字の「山南」読みについては「やまなみ」「さんなん」が考えられている。一般には「やまなみ」が広く知られているが、本人の署名に「三南」「三男」としたものがあるため、「さんなん」の可能性も高いと考えられている。ただし、幕末には自称他称に有職読みを用いることが流行していた背景もあるため、確かなことは不明である。 == 来歴 == === 近藤との出会い === 天保4年(1833年2月5日)に誕生したといわれる。 生い立ちに関しては分かっていないことが多い。仙台藩を脱藩して江戸に出たと伝わるが、仙台には山南もしくは三南という苗字は現在はないが、東北には稀に珍しい名字が少数部落で名乗ることは多い。沖縄や九州からの移住者という説もある。 一説には、伊達政宗の重臣、山南靱負の子孫ともいうが、諸記録にはそのような名前はない。 江戸では小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流の千葉周作門人となった。柔術の名手とも。近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。この時、近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、以後は試衛館の門人と行動を共にするようになる。試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三・沖田総司・永倉新八らが集っていた。文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤の天然理心流四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。翌文久2年(1861年)正月には沖田と共に小野路に剣術教授に出張している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山南敬助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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