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山口俊一(やまぐち しゅんいち、1950年2月28日 )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)。 第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・宇宙政策)、第3次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)を務めたほか、内閣総理大臣補佐官(麻生内閣)、財務副大臣(第2次安倍内閣)、総務副大臣(第1次小泉再改造内閣・第2次小泉内閣)、衆議院決算行政監視委員長・財務金融委員長、徳島県議会議員(4期)等を歴任した。 == 来歴 == 徳島県三好郡池田町(現三好市)生まれ。徳島県立城南高等学校、青山学院大学文学部卒業。パリ第4大学留学中に政治を志し、パリ第4大学を中退後、1975年4月に徳島県議会議員選挙に出馬し、初当選。以後連続4期務める。1990年、第39回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で徳島県全県区から出馬し、初当選。当選後は中曽根派に属する。小選挙区制導入後は徳島2区から出馬している。 1994年6月29日の首班指名選挙では自民党は党議拘束により日本社会党委員長の村山富市への投票を決定していたが、山口は旧連立与党側が擁立した元首相の海部俊樹に投票し、造反した。2015年2月16日、衆議院本会議で永年在職表彰を受けた際の挨拶において、この村山が選出された首班指名に言及している〔第189回国会 本会議 第6号(平成27年2月16日(月曜日)) 〕。 2003年、第1次小泉再改造内閣で総務副大臣に任命され、第2次小泉内閣まで務める。 2005年7月5日の郵政国会では、衆議院本会議における郵政民営化法案の採決で党の方針に反し、反対票を投じる。このため、2005年の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、無所属での出馬を余儀なくされたが、自民党公認の七条明、民主党公認の高井美穂らを破り、6選。当選後、再提出された法案に対しては一転して賛成票を投じた。 2006年11月27日、復党届及び誓約書を提出。12月4日に党紀委員会で復党が認められ、自民党に復党。1998年12月から無派閥を通してきたが、かねてから親交のあった麻生太郎が為公会を旗揚げした際、結成に参加し、以後は麻生派に所属。自民党復党後、徳島2区の候補者選定をめぐり山口、比例復活した七条の2人で公認候補の座を争っていたが、2008年2月に自民党選対委員長の古賀誠が七条の処遇を後回しした上で、山口を徳島2区の自民党公認候補に内定した。 2008年9月、麻生内閣で内閣総理大臣補佐官に起用された。2009年の第45回衆議院議員総選挙では徳島2区から出馬し、前回は比例復活で当選した民主党の高井美穂に敗れるも、比例四国ブロックで復活した。 2012年自由民主党総裁選挙では、麻生派所属ながら石破茂を支持したが、石破は麻生が支持する安倍晋三元首相に敗れた。安倍総裁の下で幹事長に就任した石破の推挙により、選挙対策局長代理に起用される〔お友達人事に血眼だった石破自民党幹事長の悪評 〕。同年の第46回衆議院議員総選挙では、徳島2区で民主党の高井に比例復活すら許さず、8選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で財務副大臣に任命される(2013年9月に退任)。 2014年9月、第2次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・宇宙政策)に任命され、当選8回で初入閣した〔「人事異動」『官報』号外特14号、国立印刷局、2014年9月3日、1面。〕。併せて「情報通信技術(IT)による産業・社会構造の変革を円滑に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」〔「再チャレンジ可能な社会を構築するための施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」〔「日本が誇る文化の国際展開を図るため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」〔を担当する国務大臣に任命された。同年の第47回衆議院議員総選挙では、徳島2区で9選。2014年12月、第3次安倍内閣の発足に伴い、新たに内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)の補職辞令を受けた〔第3次安倍内閣 閣僚等名簿|首相官邸ホームページ 〕。2015年10月7日、第3次安倍改造内閣の発足に伴い、内閣府特命担当大臣を退任した。2015年10月11日、自民党徳島県連会長に就任〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口俊一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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