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山口宗永 : ウィキペディア日本語版
山口宗永[やまぐち そうえい]
山口 宗永(やまぐち むねなが、天文14年(1545年) - 慶長5年8月3日1600年9月10日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名山口光広の子。加賀大聖寺城主、山城宇治田原城主、近江大石淀城主。通称は玄蕃允、玄蕃頭。別名は正弘。また、名については「宗永(そうえい)」という法号ではないかとする説もある。子に修弘弘定、女子(池田重利室)。
== 生涯 ==
天文14年(1545年)、山口光広(甚介)の子として誕生。
豊臣秀吉に仕え、文禄2年(1593年)、大友義統改易に伴い豊後国に入り太閤検地を実施する。慶長2年(1597年)、小早川氏を継いだ秀吉の甥・小早川秀秋の補佐するため豊臣政権から付家老として送り込まれ、小早川領にて検地を行ったり、慶長の役では朝鮮に渡って秀秋を補佐した。特に蔚山城の戦いでは小早川勢を率いて加藤清正らの籠城する蔚山倭城を救援したという。しかし、秀秋とは折り合いが悪く、秀秋が慶長3年(1598年)に筑前名島城から越前北ノ庄城へ転封されると、加賀大聖寺城の独立大名に取り立てられた。その後、秀秋の転封は取り消され旧領に戻ったが、宗永は加賀に留まった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、宗永は石田三成の西軍に与した。7月26日に東軍の加賀金沢前田利長は約2万の大軍を率いて金沢城を出撃し、西軍の丹羽長重の拠る小松城を攻撃するかに見えたが、急遽これを避けて8月1日に加賀松山城に入城した。宗永はその危急を聞いて大聖寺城の防備を堅め、北ノ庄城の青木一矩や小松城の丹羽長重に救援依頼の使者を出したが間に合わなかった。翌2日、利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として宗永に降伏を勧告したが、宗永は憤激しこれを拒否した。
前田勢は数を嵩にきて城攻めを行った。守る山口軍も宗永の嫡男・修弘が城近くに兵を潜ませて迎撃の指揮をとったが、前田勢の先鋒山崎長徳に発見され敗北、山口勢は敗残兵を収容しただちに篭城戦の構えをとった。前田勢も先鋒の山崎隊に加えて長連龍隊などの後続の軍勢も参戦して城の外周で激戦が展開された。修弘は果敢に出撃してしたたかに前田勢に被害を与えたが、前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、やむなく城内に退却する。大軍の前田勢はひた押しに押し進むが、宗永父子が率いる山口勢もひるまず果敢に反撃した。しかし、2万の大軍の前に僅か500余の兵しかいない山口勢では敵うはずもなく、ついに宗永は塀の上から降伏の意思を伝えた。ところが、多くの兵を失った前田勢は復讐心に燃えてこれを許さず、城内に突入した。
8月3日の夕方、大聖寺城は陥落、宗永・修弘父子は自害した。宗永と修弘の墓は石川県加賀市大聖寺神明町にある全昌寺にある。次男の弘定は、大坂の陣において豊臣方に与して戦死した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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