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山口 幸二(やまぐち こうじ、1968年7月29日 - )は日本の元競輪選手、競輪評論家。岐阜県大垣市出身。 日本競輪学校第62期卒業。現役時は日本競輪選手会岐阜支部所属。初出走は1988年9月1日の大垣競輪場で初勝利も同レース。ホームバンクは大垣競輪場。師匠は棚橋良博。 山口富生(68期)は実弟である。 == 戦績 == 岐阜県立大垣西高等学校在学中まで野球をしていたが、父の山口啓が選手だったこともあり、卒業後は日本競輪学校を受験し合格。競輪学校卒業後から徐々に成績を上げ、やがてS級に定着する。 1993年の全日本選抜競輪(青森競輪場)では決勝に進出したが、決勝のゴール直前で「ハンドル投げ」のタイミングを誤り、微差による写真判定の末、高木隆弘の2着に敗れてしまう。この時のゴール直後、微差であったことから先にガッツポーズしてしまった。 しかし1998年、オールスター競輪(一宮競輪場)で予選回りながらも3連勝を果たして決勝進出。決勝でも直線で一気に伸びて勝ち、全走1着の「完全優勝」で悲願の特別競輪初制覇を果たす〔GI競輪の完全優勝は、これ以降出ていない。(スポーツ報知 2013年9月16日 24面「ささやき」)〕。さらに同年のKEIRINグランプリ'98(立川競輪場)では、同じ大垣をホームバンクとする山田裕仁の番手から抜け出し優勝した。 以降も山田裕仁と並ぶ「中部の顔」として、2005年の全日本選抜競輪で決勝2着となるなど特別競輪であるGIレースでも活躍を続けた。だが後に一時期成績が低迷したことから、2008年後期にはS級2班へ降格となってしまう。さらにその直前の4月には選手会岐阜支部の支部長に就任したことで、公務との兼務もあって以前より練習に多く時間を割けなくなってしまったものの、それでも40代を迎えながらも特別競輪の決勝に4回も進出する大活躍を見せたことから、2009年は1班復帰を飛び越えて年間獲得賞金額上位によるS級S班格付を果たし、2012年まで4年連続でS級S班格付を維持した。 2009年以降もS級S班の特権を生かして年間獲得賞金上位を争う活躍を見せたが、2009年には同県の後輩である永井清史に、2010年には伏見俊昭にかわされる形でKEIRINグランプリの出場こそ逃してしまった。 2011年には特別競輪で日本選手権競輪・寛仁親王牌・オールスター競輪と3回も決勝で2着に入り、獲得賞金上位でKEIRINグランプリ2011に出場。12月30日の本番ではゴール前での武田豊樹、浅井康太との競り合いを制して1着となり、1998年以来13年ぶり2度目のグランプリ制覇を果たした。なお同年の年間獲得賞金額は2億円には200万円強ほど届かなかったが、それでも自身初の年間賞金王に輝き、40歳代4人目のGI以上勝利を達成したうえS級S班最高齢記録更新も確定させた。 2012年も東西王座戦や高松宮記念杯で決勝に進出する活躍を見せたが年間獲得賞金額が伸びず、年末に行われた競輪祭でも決勝戦に進出したものの7着となり、S級S班からの陥落が決定する。この時既に親しい仲間には、競輪祭で引退することを打ち明けており、決勝のレース後には検車場で弟の富生、山田裕仁、村上義弘らが涙を流しながら山口を迎えていた〔山口幸二が引退 25年の現役生活に終止符 - スポーツニッポン・2012年12月3日〕。 翌日の報道で引退が公になった〔後、12月4日に引退記者会見が行われ、「2011年から前の選手を追走できないことが増え、それでもグランプリを勝ち2012年はずっと1番車だったが、それを背負い続けて勝てなくなったこと」が引退の理由と語った〔ヤマコウ引退会見「1番車脱ぐ時が潮時」 - 日刊スポーツ・2012年12月5日〕。 12月25日、2012年のS級S班としての期間を満たす形で選手登録を消除。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口幸二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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