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山口雪渓[やまぐち せっけい] 山口 雪渓(やまぐち せっけい、正保四年(1648年)〔「大涅槃図」(清水寺蔵)の落款 「宝永五年二月十二日雪渓六十一歳筆」から逆算で享年85。雪渓には89歳没とする説もあり、没年は享保17年と伝わることから、そこから逆算すると生年は正保元年(1644年)となる。実際これを裏付けるかのように「八十八歳筆」と署名した作品も現存する。しかし、江戸時代の絵師にはしばしば還暦を迎えると実年齢より加算した年齢を作品に記した例(伊藤若冲など)があり、雪渓も同様と見られる。ただし、「大涅槃図」の署名時点で加算が行われていた可能性もある(『蕭白ショック!! 曾我蕭白と京都の画家たち』展図録)。〕 - 享保17年9月4日〔8日とする説もある。〕(1732年10月22日))は、江戸時代中期の京都で活躍した漢画系の絵師。名は宗雪。別号を梅庵、白隠など。 ==経歴==
長谷川等伯の四男長谷川左近(1593年 - ?)の門弟とされる〔浅井不旧 『扶桑名公画譜』〕。両者は生年が50歳以上も離れており直接師事したとは考えにくいが、「桜楓図屏風」(醍醐寺蔵)の作風から長谷川派に学んだ可能性は高い。また、京狩野の狩野永納に学んだとする説もある。粉本主義に反発し、宋・元時代や室町時代から桃山時代の水墨画に傾倒した。特に雪舟と牧谿に私淑し、一字ずつもらい雪渓と号したという〔白井華陽 『古画備考』〕。東之寺内に住み、墓所は中京区の善導寺。 仏画の遺作が多い一方、水墨画の花鳥画や人物画は、狩野派の特に狩野永徳や海北友松に倣った復古的な画風を示す。寛政4年(1792年)版『諸家人物志』では「花卉人物ヲ描クミナ奇想ニ出ツ」と、その画風を「奇想」と評している。中林竹洞は著書『画道金剛杵』付属の「古今画人品評」で、下上品の唐絵の項目に雪渓を挙げている。 弟子に、後に望月派の派祖となる望月玉蟾がいる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口雪渓」の詳細全文を読む
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