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山崎 博昭(やまざき ひろあき、1948年11月12日 - 1967年10月8日)は、羽田事件で死亡した学生活動家である。 高知県生まれ。大阪市立茨田中学校、大阪府立大手前高等学校卒業、1967年京都大学文学部入学。高校時代は「大手前高校社研(社会科学研究会)」で活動した。 1967年10月8日の第1次羽田事件(佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止運動)において、弁天橋における機動隊との衝突の際、死亡した(享年18歳)。「仲間の運転する警備車に轢かれて死んだ」と警察側は発表し、運転していたとする学生を逮捕したが、立件できずに不起訴とした。一方、死亡直後、東京都監察医務院は「死因は脳挫滅」とする死体検案書(1967年10月9日、大田区役所発行)を発表しており、全裸の遺体に対面した遺族と弁護団は、警察の発表した「轢殺痕=タイヤ痕」は「存在しなかった」と証言している。弁護士・小長井良浩は、死因をめぐる警察発表の疑惑、矛盾を『社会新報』1967年10月18日号、『朝日ジャーナル』1967年12月24日号で追及している〔鈴木道彦 『越境の時 一九六〇年代と在日』 集英社新書 0387-C ISBN 978-4087203875、140-143p〕。由紀草一は、反体制側は一貫して山崎が権力によって虐殺されたのだと留保なく主張し続け、自身もかなり後になるまでそうだと信じていた、と自著で述べている〔由紀草一 『団塊の世代とは何だったのか』 洋泉社新書y 097 ISBN 4896917634、81p〕。 山崎の死因について山本夏彦はコラムで以下のように述べている〔山本夏彦 『毒言独語』 中公文庫 [や-19-4] 、80-81p/『毒言独語』 中公文庫 [や-19-16] ISBN 4122042623、80-81p〕。 この羽田闘争については、、南ベトナムのサイゴン大学学生連合は、執行委員の署名入りで、「佐藤首相の南ベトナム訪問に反対し、日本の学生と連帯してベトナムの平和と独立を守るために戦う」という声明を発表〔『毎日新聞』1967年10月10日付〕。また、南ベトナム解放民族戦線カイロ駐在代表のレ・クアン・チャンは、「われわれは佐藤訪問に反対する日本国民の英雄的行為をたたえ、かつこれに感謝する。デモのさい死亡した学生の家族には心からおくやみをいいたい」という談話を発表した〔『読売新聞』1967年10月11日付〕。 1967年10月17日、日比谷野外音楽堂において、虐殺抗議・山﨑博昭君追悼中央葬が開催され、1967年10月23日、日中友好協会(正統)ほか主催の愛国学生山崎博昭追悼集会が開催された。 この事件の後、学生たちは頭部を守るため、ヘルメットを着用するようになった。山崎の死は、安保闘争の樺美智子以来の学生運動での死であったが、樺のような広範の同情と共感を呼び起こさなかった。これを指摘した高木正幸は、すでに学生運動が孤立化していること、学生層を孤立に追いやった既成左翼など革新陣営の責任を指弾する声が強かったことを説いている〔高木正幸 『全学連と全共闘』 講談社現代新書 771 ISBN 4061457713、85p〕。運動者側は以後、70年安保闘争に向けて、佐世保、王子、三里塚闘争、沖縄、全共闘運動と、学生運動・反戦運動が高揚した。 遺骨は大阪府交野市の平和台霊園に埋葬されている。 == 関連事項 == * 羽田事件 * 井上清 - 虐殺抗議・山崎博昭君中央追悼葬にて弔辞を読んだ。 * 樺俊雄 - 樺美智子の父。虐殺抗議・山崎博昭君中央追悼葬にて詩を読んだ。 * 革命的共産主義者同盟全国委員会 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎博昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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