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山崎直胤[やまさき]
山崎 直胤(やまさき〔『海を越えた日本人名事典』新訂増補、702頁。〕 / やまざき〔 なおたね、1852年〈嘉永5年5月〔「山崎直胤叙勲ノ件」〕〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日〔『官報』第1652号、大正7年2月6日。〕〔『海を越えた日本人名事典』新訂増補、702頁では「2月2日」。〕)は、明治期の官僚。内務省初代県治局長、山梨県知事(官選第6代)、三重県知事(官選第4代)、宮内省調度局長、錦鶏間祗候。旧名・賢吾〔。 ==経歴== 豊前国下毛郡諫早村(現大分県中津市三光諫早)出身〔『新編日本の歴代知事』492頁。〕。山崎直高の長男として生まれる〔『新編日本の歴代知事』605頁。〕。明治3年6月(1870年)、新政府に出仕し民部省十四等出仕となる。新設の工部省に移り、明治4年9月(1871年)、造船中師に任官〔。 明治5年2月(1872年)、産業技術調査のためフランスへ出張。ウィーン万国博覧会事務官も務めた〔。1875年1月に帰国。1877年1月、太政官少書記官となり、さらに同大書記官を務める〔。1882年2月、各国憲法の視察を行う伊藤博文一行に加わり欧州へ出張し、1883年8月に帰国した〔〔。 1885年6月、初代の内務省県治局長に就任〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』92頁。〕。1887年3月、山梨県知事に転任。予算編成に当たっては県民の負担軽減に配慮を行う〔。1888年6月、三重県知事に転任。前年度と同規模の予算編成を行う〔。1889年12月、知事を非職(休職)となる〔『官報』第1951号、明治22年12月27日。〕。 1890年2月、宮内省に転じ、宮内書記官兼調査課長、兼山階宮別当に就任〔『官報』第1987号、明治23年2月17日。〕。以後、調度局長などを務め、1897年9月に退官し錦鶏間祗候となる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎直胤」の詳細全文を読む
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