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山崎 隆造(やまさき りゅうぞう、1958年4月15日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。愛称は「リュー」。2003年から2011年までの登録名は「山崎 立翔」(読み同じ)。 == 来歴・人物 == 崇徳高校では、1976年、3年の時に一番打者、遊撃手として春の選抜に出場。決勝で小山高を降し優勝を果たす。夏の甲子園では3回戦で長崎海星に敗退。黒田真二、小川達明や後の新日鉄君津~早稲田大学野球部監督の應武篤良は同期でチームメイトだった。 超高校級の遊撃手と騒がれ、1976年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。1978年後半から当時監督だった古葉竹識の勧めにより、高橋慶彦に次いでスイッチヒッターへ転向した。しかし高橋がいたため遊撃手には定着出来ず、入団5年目までは内外野(主に二塁手と左翼手)をかけもちした。 1981年3月8日、熊本藤崎台球場でのオープン戦(対日本ハムファイターズ)で、村井英司の打球を追ってコンクリートフェンスに激突し、右ひざを骨折し全治2か月の重傷を負う〔沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、p.293〕。この時の衝撃音はベンチ裏まで聞こえたほどで、膝蓋骨はたいてい二つに割れるものだが、山崎の場合は粉々になっていたという。手術は「粉々になった骨を掻き集めて、ワイヤーで皿状に括る」という前例のないケースで行われ、一転して選手生命の危機を迎えた。 1981年のシーズンは棒にふったが、翌年の1982年に86試合に出場し、復活。1983年には開幕戦から山本浩二(左翼手にコンバート)に代わって中堅手を任され、レギュラー定着を果たした。打順は主に2番や1番を打ち、6月以降は中堅手の座を長嶋清幸に譲り、自身は主に右翼手を務めるようになる。同年から3年連続で打率3割を記録。ベストナイン3度、外野手としてゴールデングラブ賞を4度受賞、1984年には26試合連続安打を記録するなど、走攻守三拍子揃った「赤ヘル野球」の体現者として高橋とともに活躍した。打撃タイトルは無かったものの、右ひざ骨折という致命的な大怪我をしながら、その後203個の盗塁を重ね、1984年からは6シーズン連続全試合出場を果たしており、1983年10月16日から1990年4月28日まで803試合連続出場している。 1990年以降は外野に加えて三塁手としての出場が増え、1993年シーズン終了後に現役引退した。その後はコーチ、二軍監督を経て2001年から一軍守備走塁コーチ(一塁・三塁ベースコーチ)を務めた。2003年に「隆造」から「立翔」に改名。2006年から再び二軍監督に就任し、2011年まで務め同年限りで辞任した。 2012年からは中国放送(RCC)の野球解説者を務める傍ら、広島東洋カープジュニアチームの監督を務めており、解説者・監督としての活動では本名の「隆造」名義に戻している。また同年より、崇徳高校硬式野球部OB会副会長に就任している(会長は應武)。 ちなみに、ロックバンド「くるり」の岸田繁は山崎の現役時代のプレーを見て以来ファンとなり、現在も広島の大ファンで、2006年6月4日に広島市民球場で始球式を務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎隆造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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