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山崎 興盛(やまさき おきもり、生年不詳 - 弘治3年3月2日(1557年4月1日))は戦国時代の武将。大内氏家臣・陶晴賢の家臣。名は「貞総」(さだふさ)とも。官途は伊豆守又は出雲守。熊毛山城主。子に山崎隆次(たかつぐ)、鶴千代丸、和泉丸。 == 生涯 == 生誕年不詳だが、名前の「興」の字は大内義興に由来する〔興盛自身はあくまで陶氏の家臣という立場にあるため、義興から直接偏諱の授与を受けたかどうかは定かではなく、義興の1字を受けた陶興房(晴賢の父)から授与された可能性がある。長男の隆次についても、「隆」の字は義興の子・大内義隆由来であるが、同様に陶隆房(のち晴賢)から受けた可能性がある。〕ものであることから、この頃から存命しているものと推測される。但し、この頃には特に活動はみられない。 天文16年(1547年)の『須々万八幡宮文書』に代官として名を連ねている。 弘治2年(1556年)から始まる毛利元就の周防侵攻(防長経略)を防ぐために、嫡男の隆次、江良賢宣(房栄の兄)、勝屋興久(相良武任の実弟)、郷村の一揆らと共に須々万沼城に篭城。同年4月20日からは熊谷信直、9月22日からは毛利隆元率いる毛利軍の攻撃を度々退けたが、翌弘治3年(1557年)2月19日からは毛利元就自ら軍勢を率いて攻撃を始め、沼に蓆を浮かべ、火縄銃を初めて戦闘で使用して総攻撃を行った。江良賢宣の降伏や城兵の士気低下、逃亡により3月2日に須々万沼城は開城した。 長期戦の最中、興盛の妻が篭城中の夫を慕い、城の周囲の沼を渡り訪ねたという逸話がある。元就は山崎興盛親子を助命しようとしたが、興盛は元就に検使を乞い、断乎として志を曲げなかったので、元就は仕方なく検使として井上就正、児玉就英を遣わし、興盛は隆次と共に城下で3月3日に自害した。元就は興盛父子の首実検をした後、龍文寺に丁重に葬り、法要を営んだ。 戒名は「貞山道正大居士」。墓碑は山口県周南市須々万の山口県立徳山高等学校徳山北分校裏の畑にある。 次男の鶴千代丸は14歳だったため龍文寺で切腹。三男で11歳の和泉丸は落ち延び、富田山奥に出て農民の藤井某のもとに隠れ住んだ。その後、富田建咲院が先祖の建立した寺であると知り、尋ねて後に三世の宗喜和尚に養育された。21歳の時、富田政所の田中家に世話をされて後、大庄屋となった。子孫の和泉屋儀兵衛の時、天明5年(1785年)に富田新開作(旧新南陽市の和泉屋開作)の築立に成功する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎興盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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