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山崎裕之[やまざき ひろゆき]
山崎 裕之(やまざき ひろゆき、1946年12月22日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(内野手)。 == 来歴・人物 ==
埼玉県立上尾高等学校では春の選抜に遊撃手、控え投手として初出場を果たす。同大会では2回戦に進出するが東邦に敗れる。この試合ではリリーフとして甲子園初登板を果たした。1964年夏の県予選は準決勝で熊谷商工に敗れた。 1965年、東京オリオンズに入団。【長嶋二世】と言われた所以で、オリオンズ入団時に当時の看板打者・榎本喜八がつけていた背番号3を提示されたが、2番を希望する。当時はドラフト制度が無く、各球団での競合となり、当時としては破格の契約金5000万円での入団となった。1年目から一軍に定着し、1967年には遊撃手のレギュラーとなるが、打撃は今一つ伸び悩む。1969年に二塁手に回り、打率.301を記録。以後不動の二塁手として1970年、1974年のリーグ優勝に貢献する。しかし新監督の山内一弘の構想から外れ、1978年オフに古賀正明・倉持明との交換トレードで、福岡から所沢へ移転した新生西武ライオンズに成重春生と共に移籍。この時、当時ヤクルト監督だった広岡達朗から直接誘われたが、この時は実現せず〔「私の履歴書 広岡達朗」日本経済新聞社連載(20)、2010年8月21日〕、広岡が西武監督に就任した1982年、1983年の連続日本一に貢献した。1983年には自己最多の82打点をマークし、通算2000本安打も達成。1984年、チームのリーグ3連覇が絶望的になったのを機に若手主体の編成に変わり、この年限りで現役引退。 引退後は、文化放送、テレビ東京の野球解説者、日刊ゲンダイの野球評論家として活動。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎裕之」の詳細全文を読む
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