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山崎賢一 : ウィキペディア日本語版
山崎賢一[やまざき けんいち]

山崎 賢一(やまざき けんいち、1962年7月20日 - )は、東京都生まれ〔『ホークス九州20年史―1989-2008 飛翔!若鷹軍団』P98〕・埼玉県志木市出身〔「全国」夢のベストナイン特集 - 時事ドットコムより〕〔LOTTE BASEBALL CARD 1990「山崎賢一」〕〔『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』〕の元プロ野球選手外野手)。
== 来歴・人物 ==
埼玉県立所沢商業高等学校を経て、のドラフト外横浜大洋ホエールズに入団。背番号は46。入団後4年間は二軍生活を送る。背番号が59に変更となったに監督就任した近藤貞雄が目標とする機動力野球に合致した選手として評価され、同年4月24日に一軍公式戦初出場を果たす。同年は32試合に出場し、プロ入り初本塁打を記録した。なお、二軍では22盗塁を記録しイースタン・リーグ盗塁王を獲得。
翌、当時スーパーカートリオの一員であった加藤博一が負傷した為、出場機会が増加。主に代打代走、試合終盤の守備固めとして起用されるなど、スーパーサブ的な役割を果たす。二軍コーチの基満男が長打を切り捨て、単打主義を徹底させるために考案した〔『やくみつるのベイスターズ心中』P175〕こけしバット(またはつちのこバット)というグリップエンドがこけしの頭のような形をした、極端にバットを短くグリップすることが出来るバットを使用しだし、注目される。しかし、の古葉竹識監督就任後は、打率1割台を記録するなど成績が低下し、出場試合数も前年の97試合から42試合へ減少した。
屋鋪要の成績不振により、中堅手としてスターティングメンバーでの出場機会を増やす。期待以上の活躍を見せ、外野手であったジム・パチョレック一塁に追いやった。
シーズンは開幕スタメンを経験。成績は常に打率3割台をキープ。同年不振に陥っていたカルロス・ポンセに代わり4番を打つ事が多かった〔当時「12球団中最も長打力の低い4番打者」と揶揄されたこともあった。〕。また、オールスターゲーム初出場も果たした。シーズンオフにはゴールデングラブ賞ベストナインの表彰を受け、背番号も2に変更された。
頃から腰痛に悩まされ好成績を残せなくなり、チーム名が横浜ベイスターズに変わったオフ、チームの若返り策の一環〔球団が同年オフにFA宣言した駒田徳広の獲得資金を捻出する為に、山崎や高木ら高年俸の選手達4人を解雇したという理由もある。〕として屋鋪や高木豊らのベテラン選手とともに戦力外通告を受ける。
その後、解雇された6選手の中でいち早く他球団からオファーが来たのは山崎であった。に福岡ダイエーホークスへ移籍。背番号は26。主に代打、代走として出場する。は一軍出場が無いまま現役を引退。引退後は球団に残り、1997年にスカウト、に二軍コーチを務め、1999年より再びスカウトを務める〔週刊ベースボール2014年3月24日号 P19〕。
大洋・横浜時代に付けられたニックネームは「番長」〔『やくみつるのベイスターズ心中』P213〕。プロ入り前は「組長」だったが、入団当時コーチだった沖山光利が社会に出ればランクが下がるだろうと考え付けたものである〔。のちに三浦大輔へ「ハマの番長」として受け継がれた。
こけしバットはダイエー移籍後も使用し、漫画『ドカベン プロ野球編』では、2年目のシーズンで山田太郎がそれに対応するリードを行う場面が描写された。また、「こけしバット」というフレーズは、横浜時代の応援歌の歌詞に使用された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山崎賢一」の詳細全文を読む



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