|
山崎 長之輔(やまざき ちょうのすけ、1877年12月18日 - 1924年8月23日〔山崎長之輔 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2009年12月25日閲覧。〕)は、日本の俳優である。本名は山崎 長吉(やまざき ちょうきち)、俳号は山崎 神山(やまざき しんざん)である〔。 == 人物・来歴 == 1877年(明治10年)12月18日、東京府(現在の東京都)に「山崎長吉」として生まれる〔。 長じて、新派を志し、伊井蓉峰の弟子となる〔。やがて独立して「山崎長之輔一座」を構え、初期の映画会社のひとつである福宝堂日暮里撮影所で、1912年(大正元年)、吉野二郎監督の『通夜物語』等に出演する。同年、福宝堂が他の3社と合併し、日活となり、翌1913年(大正2年)10月、日活向島撮影所が開所になると、演出部の田村宇一郎、撮影部の杉山大吉、枝正義郎らとともに異動する。同年、元福宝堂の山川吉太郎が日活から独立し、東洋商会を設立、撮影技師の枝正らとともに引き抜かれ、同社の映画や連鎖劇に出演した〔。 1914年(大正3年)3月17日、東洋商会の山川が、同じく福宝堂出身の小林喜三郎とともに天然色活動写真(天活)を設立すると、同社に移籍する。吉野二郎を撮影所長、枝正義郎を撮影部長(現在でいう製作部長)にすえた天然色活動写真日暮里撮影所、小阪撮影所で映画や連鎖劇に出演した〔。連鎖劇は、大阪・角座等で人気となった〔。 1921年(大正10年)、前年に設立した松竹キネマの松竹蒲田撮影所に移籍、島津保次郎監督の『寂しき人々』等に主演した。 1924年(大正13年)8月23日、死去した〔。満48歳没。墓所不明、碑が天王寺の壽法寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎長之輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|