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山崎 龍女(やまざき りゅうじょ、生没年不詳)とは、江戸時代初中期の女流浮世絵師。 == 来歴 == 代表作の一つ「傘持ち美人図」(MOA美術館所蔵)に描かれた遊女が着ている浴衣地に、上から市川門之助、山下金作、三条勘太郎のものと見られる役者の紋が染められており、山下金作が江戸に下ったのが享保8年(1723年)冬、市川門之助は享保14年(1729年)正月に没していることから、自ずと龍女は正徳(1711年 - 1716年)期の生まれであるとほぼ限定できる。 『増補浮世絵類考』によれば、下谷長者町(現在の上野三丁目及び五丁目)に住む御旗同心山崎文左衛門の娘だったという。のちに芝増上寺門前に住む。名をお龍と称したので落款には「龍女」または「女龍」と記している。菱川師宣に絵を学んだともいわれるが年代の上で無理があり、おそらくは独学で習得したと見られる。享保のころに肉筆美人画を描き、幼時から画才に富み、十代で既にひとかどの美人画を描いている。画風からは懐月堂派の影響が見られ、玉子形の顔に切れ長の目の美人の風貌は、当時の様式によるが龍女独自のものである。享保19年(1734年)に刊行された『本朝世事談綺』(菊岡沾涼著)にはその当時、「おりう絵」と呼ばれて盛名を得た様子を以下のように伝えている。 :「おりう絵 女画竜は、六、七歳のころより天性うき世絵に耽て習はずして得たり。手跡また亜し之。能筆也。始は東叡山の麓にあり。今増上寺門前に住す。現在也。頃年女画工の名手なり」 さらに『逸人画史』という伝記書には、「おりう江戸下谷の人、画を菱川師宣に学ぶ、其画風一工夫ありて奇趣あり、業平の涅槃像の奇図を作る、実に女子の英傑なるものなり」と記されている。 龍女には「業平涅槃図」という作品があり、これは英一蝶による「業平涅槃図」を直接参考にしたようである。龍女が描いた作品には「山崎氏女龍十四歳筆」のように年紀の記されたものが多く、12歳から33歳までの各時期のものが確認されている。代表作として先述の「傘持ち美人図」のほか、「二美人駒引き図」(東京国立博物館所蔵)、「遊女と客図」(ニューオータニ美術館所蔵)があげられ、3作品とも「山崎氏女龍十四歳筆」と落款がされている。また材質面の特徴として、絹本より紙本に描かれたものが圧倒的に多く、絵の具もあまり良質ではない。こうした特色は、龍女が寺社の境内において参詣客の前で、即興的に制作した証左とも考えられる。同時代の『本朝世事談綺』に記事が載るのも、14歳のうら若い乙女が群衆を前に見世物的に制作して販売する行為が世上の話題になったからとも推測できる〔大久保(2012)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎龍女」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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