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山川 方夫(やまかわ まさお、本名:山川 嘉巳、1930年2月25日 - 1965年2月20日)は日本の作家。 == 略歴 == 東京市下谷区上野桜木町(現在の東京都台東区上野桜木町)にて、日本画家山川秀峰の長男として生まれ、品川区下大崎(現在の品川区東五反田)に育つ。 1936年、慶應義塾幼稚舎に入学。1942年、慶應義塾普通部に進学。1945年、敗戦を疎開先の神奈川県中郡二宮町の父の別荘で迎える。1947年、慶應義塾予科文学部に入学。在学中に学制改革を経て慶應義塾大学文学部仏文科に進む。1952年に卒業。卒論はサルトル。慶應義塾大学大学院文学研究科仏文専攻に入学。『三田文学』に参加。1953年、大学院中退。1954年、田久保英夫、桂芳久と共に第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳、坂上弘などの作品を掲載する。1956年、編集を退く。 1958年、『演技の果て』で第39回芥川賞候補となる。1959年、『その一年』『海の告発』で第40回芥川賞候補となる。1960年、中原弓彦編集の『ヒッチコック・マガジン』誌に登場し、ショートショートを執筆。後に日本国外の雑誌に転載される『お守り』を『宝石』に発表する。1961年、『海岸公園』で第45回芥川賞候補となる。 1962年から1963年にかけて『ヒッチコック・マガジン』誌で、『夏の葬列』などのショートショート『親しい友人たち』を連載。同じ頃、寿屋(現在のサントリー)のPR誌『洋酒天国』の編集に関与。1964年、『クリスマスの贈物』で第50回直木賞候補、『愛のごとく』で第51回芥川賞候補となる。 1965年2月19日、二宮駅前の国道1号でトラックに轢かれる交通事故に遭い、翌日に死去。享年34。 妻山川みどり(旧姓生田)は『芸術新潮』誌の元編集長。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山川方夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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