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山手殿 : ウィキペディア日本語版
山手殿[やまのてどの]
山手殿山之手殿〔とも。やまのてどの、天文18年(1549年)? - 慶長18年6月3日1613年7月20日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性真田昌幸正室
== 生涯 ==
永禄7年(1564年)頃に武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に嫁ぐ。これは永禄9年(1566年)に誕生する嫡子・信之の前に生まれた女子(村松殿)がいるため、昌幸と山手殿の結婚は遅くてもこの頃と推測されているためである〔 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.74〕。
昌幸が甲斐武田氏に仕えていた際には人質として甲府の新府城にあり、天正10年(1582年)3月に織田信長による武田征伐で武田氏が滅亡した際には九死に一生を得て新府城から脱出して上田へ帰還した〔 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.76〕。
慶長5年(1600年)8月、関ヶ原の戦いの直前に大坂にいたため、石田三成の人質となって大坂城に拘留されるが、真田家臣・河原綱家の機転により逃れて上田に帰還した〔。ただ、人質とは形式だけの事で、慶長5年8月6日付で三成が昌幸に宛てた書状で「御内儀も大坂へ入り候、何事もなく候、宇多河内父子(宇多頼忠頼重)も当城(佐和山城)留守居として今日当地へ参り候」とある事からも明らかである。
関ヶ原終結後の同年12月13日、昌幸・信繁親子は16人の家来と信繁の妻女を伴って、九度山に幽閉されることになったが、山手殿は信之に引き取られ、上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改める。
慶長6年(1601年)頃から大輪寺で生活を始める。
慶長18年(1613年)6月3日に死去〔 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.75〕。夫の昌幸の死からちょうど2年後の事であった。
法名・寒松院殿宝月妙鑑大姉〔。墓所は大輪寺〔(長野県上田市)、大林寺(長野県長野市)。
山手殿と昌幸の間に生まれた確実な子女は、長女の村松殿、嫡子の真田信幸(信之)、次男の真田信繁(幸村)だけであり、他の子女に関しては不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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