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山本 コウタロー(やまもと コウタロー、本名:山本 厚太郎(やまもと こうたろう)、1948年9月7日 - )は、日本の歌手、タレント、白鴎大学教授。オフィスプロフィット所属。東京都千代田区出身。芸名は山本コウタロー(コータローではない)だが、作曲や大学で教鞭をとるときは本名の山本厚太郎名義で行っている。千代田区立麹町中学校、東京都立日比谷高等学校、一橋大学社会学部卒業。 == 略歴など == 上智大学法学部に入学。その後も東京大学受験を志すも東大紛争による東大入試中止により一橋大学社会学部に入学。大学在学中からフォーク・グループソルティー・シュガーのメンバーとして活動。日本におけるコミックソングの代表作のひとつともいえる「走れコウタロー」を1970年にリリース。その面白さから第12回日本レコード大賞新人賞を受賞するヒットソングとなった。1971年ソルティー・シュガー解散後、高田渡、シバらとともに武蔵野タンポポ団のメンバーとして、中津川フォークジャンボリーに参加。この頃からなぎらけんいち(現:なぎら健壱)らと親交を持つ。1972年大学卒業。卒論は「誰も知らなかったよしだたくろう」という題名だった。 その後ソロ活動を経て、1974年に森 一美(男性、元・黒崎とかずみ)、板垣秀雄(元・ピピ&コット)とフォークグループ「山本コウタローとウィークエンド(1976年以降はウィークエンドに改称)」を結成。デビュー曲「岬めぐり」がオリコン5位の大ヒット。「走れコウタロー」と並んで、現在でも歌い継がれるスタンダードとなっている(2008年には京急三崎口駅の電車到着メロディに採用された)。 1971年から1978年までTBSラジオの深夜放送『パック・イン・ミュージック』金曜日の第1部パーソナリティを担当、第2部は後に山本のパートナーとなり、現在も同居生活をしている吉田真由美(DJ、映画評論家)が担当していた。『パック・イン・ミュージック』終了後、単身アメリカに渡り、約2年間生活。帰国後『アメリカあげます』(ほんの木社)を書き上げた。その後は、テレビ番組の司会(『午後は○○おもいッきりテレビ』の初代司会者だった)、タレント、役者などで活躍している。ニッポン放送『バイタリス・フォーク・ビレッジ→ライオン・フォーク・ビレッジ』のパーソナリティーをも担当したこともあった。 東京ヤクルトスワローズのファン。『プロ野球ai』のインタビュー記事によると、前述のとおり1978年に渡米したが、同年秋に一時帰国。ヤクルトがセ・リーグで首位争いをしているとの知らせを聞き、「このようなチャンスは二度とない」と思い立ったためで、球団創設以来初の日本一達成まで、神宮球場など各地で声援を送った。 1989年、第15回参院選比例代表区に環境政党「ちきゅうクラブ」より出馬するも落選。 地球環境問題に造詣が深いことから、白鴎大学教授として教鞭をとるかたわら、団塊の世代へ提唱するセカンドライフの食・健康、男女共同参画、食・農の問題、教育問題、平和問題といった講演活動などに勤しんでいる。 2005年より、山本コウタローとウィークエンドのオリジナルメンバーである森、山本のマネージャーの見崎孝雄(元・ラニアルズ)、オラン本柳らと共に「山本コウタローとほぼウイークエンド」を結成し、ライブ活動を開始。アルバムも発売した。 2008年5月より、『渡る世間は鬼ばかり』(第9シリーズ)に出演する。角野卓造演じる小島勇の友人という役どころを演じる。角野とは中学時代からの親友でもあり、一緒にバンドを組んでいたこともある。 出演に際しては、橋田壽賀子が山本のコンサートを鑑賞し、山本を大いに気に入ったという経緯から、橋田からの熱烈なオファーがあり、実現したものである。また他にも1985年のドラマ『もしも、学校が・・・!?』にもレギュラー出演し、同作では競演する三田村邦彦、片岡鶴太郎とユニット「THE SCHOOL」を結成し、主題歌を歌っている。 選択的夫婦別姓\制度導入に賛同し、自身も事実婚である。「つれあい、すなわち同居人とは戸籍上の婚姻関係はありません。彼女から結婚はしないで夫婦別姓で行きましょうと言われ、今となってはそれで良かったと思っています。」と述べている〔山本コウタローのプロフィール 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本コウタロー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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