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山本信次郎 : ウィキペディア日本語版
山本信次郎[やまもと しんじろう]

山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年明治10年)12月22日 - 1942年昭和17年)2月28日〔『日本海軍史』(第10巻)「山本信次郎」〕)は日本の海軍軍人カトリック教会信徒。最終階級は海軍少将正三位勲二等功五級
== 生涯 ==
山本は父・庄太郎と母・ミツの次男として相模国鎌倉郡片瀬(現・神奈川県藤沢市片瀬)で生まれ〔『父・山本伝次郎伝』 19頁〕、小学校卒業後、暁星中学校に入学した〔『人物中心のカトリック教会史』 359頁〕。暁星中学校は禁教令廃止後に開設されたカトリック教会系の学校であるが、当時はキリスト教に対する敵視が根強く、彼も当初は侮蔑を抱いていた。だが学校を運営しているマリア会修道士と過ごしているうちにキリスト教を次第に理解するようになる〔『人物中心のカトリック教会史』 360 - 361頁〕。
信次郎は父にカトリックを学ぶ許可を得ようとしたが大反対を受けた。父は寺の檀家総代を務めていた〔『人物中心のカトリック教会史』361頁〕。彼は諦めず父を説得し、三度目でようやく許可を得て校長であるアルフォンス・ヘンリック神父のもとで要理を学び、1893年(明治26年)12月24日クリスマス前夜に洗礼を受けた〔『人物中心のカトリック教会史』 362頁、『父・山本信次郎伝』 9頁、30頁〕。洗礼名は「ステファノ」〔『父・山本信次郎伝』 5頁〕。卒業目前、彼は進路に悩み、その相談をヘンリック神父に持ちかけ、神父から軍人を志すように薦められた〔『父・山本信次郎伝』30-31頁〕。
1898年(明治31年)、学校を卒業し海軍兵学校に進学し、26期を卒業。席次は59名中17番〔『海軍兵学校沿革』(原書房)「明治31年12月13日」〕。海軍士官として日露戦争に参戦し、日本海海戦には旗艦三笠」分隊長として参戦。秋山真之ニコライ・ネボガトフ少将の降伏交渉ではフランス語で通訳した〔児島襄『日露戦争 7』(文春文庫)、116頁〕。1909年(明治42年)、海軍大学校を卒業し、東郷平八郎附属副官、イタリア大使館付武官などを歴任し、1919年(大正8年)から1937年(昭和12年)まで東宮御学問所御用掛として当時、皇太子であった昭和天皇に仕え、1921年(大正10年)、ヨーロッパ5カ国訪問に付き添い、ローマ教皇ベネディクトゥス15世との会見実現に尽力した〔『父・山本信次郎伝』81-82頁〕。また、政府との仲介を務め、神社参拝問題の解決に努め、教皇庁特派使節としてピウス11世に謁見し、南洋諸島の宣教者問題の解決に尽くした〔『人物中心のカトリック教会史』 367頁〕。
私生活では1906年(明治39年)、吉原重俊の次女、千代子(後にカトリック教会の洗礼を受け、1939年(昭和4年)に死去)と結婚し三男二女を儲ける〔『父・山本伝次郎伝』225頁〕。カトリック信者として信仰生活を送り、教会の諸行事に参加し、各教会、各修道会に土地を寄進。牛込田町の自宅を開放し、青少年を育成する公教会青年会を設立、のちに全国的組織へと発展させ、「カトリック新聞」の前身である「カトリック・タイムズ」を創刊した〔『父・山本信次郎伝』150-156頁〕。1942年(昭和17年)死去。
;外国勲章佩用允許
* 1902年(明治35年)6月30日 - フランス共和国ダカデミー記章オフィシェ〔『官報』第5718号「叙任及辞令」1902年7月26日。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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