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山本十左衛門尉 : ウィキペディア日本語版
山本十左衛門尉[やまもと じゅうざえもんい]
山本十左衛門尉(やまもと じゅうざえもんい、生年不詳 - 慶長2年(1597年))は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣で足軽大将。初代山本菅助(勘助)の養子。饗庭氏の出自。は「幸俊」か。『甲斐国志』では諱を「頼元」とし、饗庭越前守(利長、永禄8年(1565年)9月21日以前に死去)の次男としている。子に平一(平一郎、幸明)、素一郎、弥八郎、三代菅助(三郎右衛門、正幸)。
== 略歴 ==

天文20年(1551年)に初代菅助の息女を娶り山本家に入る(『沼津山本家文書』)。天文22年(1553年)5月11日には初代菅助に男子(二代菅助、兵蔵、幸房)が生まれている。『甲陽軍鑑』、『沼津山本家文書』に拠れば初代菅助は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで討死し、十左衛門尉は幼い兵蔵を後見して名代を務める。
天正3年(1575年)5月21日、二代菅助は長篠の戦いで討死し、十左衛門尉が山本家を継ぐ。翌天正4年(1576年)5月12日には武田領国の家臣に対して軍役規定が出されており、真下家所蔵文書の同年推定武田家朱印状に拠れば十左衛門尉に対して鉄炮・鎚など5名分の軍役が定められている。
天正10年(1582年)3月11日には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻により武田氏は滅亡し、天正壬午の乱を経て徳川家康が甲斐を領有する。十左衛門尉は同年6月22日に徳川家臣大須賀康高から所領を安堵されており(『沼津山本家文書』)、同年8月に武田遺臣が家康への臣従を誓約した天正壬午起請文においても「信玄直参衆」に名を連ねており、旗本に属していたことが確認される。さらに同年閏正月14日には徳川家康から所領35貫を安堵されている(『真下家所蔵文書』)。慶長2年に死去(『山本家過去帳』)。
没後に山本氏は嫡男平一が継ぐが、慶長10年(1605年)に平一は急死し、さらに弥八郎、素一郎も相次いで死去し山本家は浪人する。末子三郎右衛門(三代菅助)は寛永10年(1633年)に古河藩永井尚政に仕え、天和2年(1682年)に子孫四代菅助が常陸土浦藩松平信興に仕官し、子孫は松平家臣として明治維新に至る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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