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山本拙郎 : ウィキペディア日本語版
山本拙郎[やまもと せつろう]
山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1944年)は、日本の建築家遠藤新との論争「拙新論争」でも有名。藤森照信は自著で山本拙郎のことを「日本最初の住宅作家」「住宅を好んで志した最初のアーキテクト」と紹介。日本女子大学などで講師歴任。従弟池田武邦も建築家。クリスチャン
== 経歴 ==
1890年2月22日、高知県香美郡岩村(現・南国市)に生まれる。旧制高知中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)から、第三高等学校に進学。大正3年(1914年)卒業後、早稲田大学理工学部建築学科入学。同校卒業後の大正6年(1917年)橋口信助が創立した住宅供給会社「あめりか屋」へ就職。設計部の技師長に。技術と啓蒙面を担当し住宅建築の世界を展開。雑誌で住宅設計競技を企画し、応募してきた当時中学生の吉村順三に賞をあたえたことがある。また、客人を迎えるため玄関のドアは内開き、と啓蒙していた。
1922年、従弟の早大教授山本忠興の邸宅「電気の家」を設計。その他、あめりか屋の作品は別府中山別荘、軽井沢プリンスホテルの晴山ホテル(旧根津嘉一郎別邸) などと、師の今和次郎と、旧渡辺甚吉邸(旧スリランカ大使館邸)など。
1940年から1941年にかけては、通称五条ヶ辻と呼ばれた振興住宅組合(上海恒産株式会社)・上海新市街(上海特別市中心区)に明和街の甲号住宅、平昌街の乙号住宅、さらに丙号住宅、慶林街の丁号住宅という全部で4つのタイプの日本人住宅を設計。
拙郎はキリスト教の環境に育った影響から、明治式の立身出世的人生観から切れていたとみられ、性格もやさしく温厚であったことが知られている。あめりか屋の啓蒙面として健筆をふるった『住宅』誌上の文章も、大変ロマンティックなものであった。
また池田武邦だけでなく、村野藤吾吉村順三ら後の時代の建築家たちが直接・間接に山本の存在に触れる機会があり、吉村はちいさいころに母が愛読していた婦人雑誌で拙郎が企画していた住宅の設計競技に応募し入選を果たした経験から「私が最初に好きになった建築家」と語っている。その作品も温厚、素直な作風として知られる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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