翻訳と辞書
Words near each other
・ 山本清史
・ 山本清大
・ 山本清悟
・ 山本清治
・ 山本清渓
・ 山本清衛
・ 山本渓愚
・ 山本渚
・ 山本満
・ 山本満太
山本源吉
・ 山本滝之助
・ 山本漢方製薬
・ 山本潤
・ 山本潤子
・ 山本潤造
・ 山本瀧之助
・ 山本為三郎
・ 山本照
・ 山本照子


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

山本源吉 : ウィキペディア日本語版
山本源吉[やまもと げんきち]
山本源吉(やまもと げんきち、1763年(宝暦13年) - 1825年(文政8年))は、江戸時代囲碁棋士遠江国浜松生れ、後に山本道左と号す。素人碁打ち「浜松の源吉」として名を馳せた。六段。服部因淑との二十一番碁が有名。
== 生涯 ==
1771年(明和8年)9歳の時、本因坊察元が上京の途上で浜松に宿し、察元門下の佐藤重二郎初段格に五子で勝ち、察元はこれを奇として入門を勧めるが、父は幼年をもって辞する。17歳の時に招かれて江戸へ上り、察元より二段を受け、その後1794年(寛政6年)に四段まで昇って門下第一の高弟となる。その後青木元悦、剃髪して山本道左と改名。浜松に戻り、多くの碁客が遊歴時に立ち寄った。1801年(享和元年)に服部因淑と先相先で21局を打って11勝10敗と勝ち越す。1803年(享和3年)に、本因坊跡目であった元丈に定先で5勝3敗1打ち掛けとし、五段昇段。奥貫智策には、1803年に向先相先で5勝1敗として定先の手合に打ち下げ、これにより智策は奮起し、1809年(文化6年)に浜松に赴いて道左と互先11局を打って、5勝5敗1ジゴとなった。
死後の1827年(文政10年)、訃報を聞いた本因坊元丈より六段を追贈された。子の源右衛門は1852年(嘉永5年)に、加藤隆和らの協力により追善会を兼ねた六段披露会を催し、盛会となったという。
若い時には独学であったため、形にやや難があるが、元来手のよく見える碁で、打ち過ぎる場合もあると関山仙太夫には評されている。在京時には、河野元虎中野知得らとの多くの棋譜がある。著書に『方円軌範』、また門人の橘井斎が編纂した打碁集『浜の松風』がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山本源吉」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.