翻訳と辞書 |
山本義正[やまもと よしまさ] 山本義正(やまもと よしまさ、1922年10月7日 - )は、山本五十六元帥の長男。母は礼子。著述家。
== 略歴・人物 == 大正11年(1922年)に東京府の千駄ヶ谷で、海軍軍人であった山本五十六の長男として生まれた。五十六が結婚5年目の40歳の時の待望の嫡子であった。山本家は結婚当初は、青山高樹町、以後、千駄ヶ谷、霞ヶ浦、鎌倉、青山と移り住み、霞ヶ浦時代には妹・澄子も誕生した。義正は、ハリス記念鎌倉幼稚園から鎌倉第一小学校に通い、その後、父・五十六の切望であった東京府立一中(現・日比谷高)入学の為に、青山南町に一家で引越し、比較的合格率の高かった青南小学校に六年生の一年間通った。また小学校選びや家探しの折、五十六は親友であり、また娘を青南小から府立三女にやっていた堀悌吉〔のち、長男の正も府立一中に入学したが、戦後すぐに病死した。 『私の履歴書 長岡實』(日本経済新聞社 2004年4月4日付「東京府立一中」)〕や長岡時代の友人のアドバイスにも預かっていた。 府立一中入学後、五十六は父兄会理事に就任するなどしたが、連合艦隊司令長官として太平洋戦争の指揮を執り、南方を転戦視察途上の1943年4月18日、ブーゲンビル島上空にて戦死した(海軍甲事件)。義正は一中卒業後、海軍兵学校を目指したが、近眼と肋膜炎の影響から結局は旧制成蹊高等学校理科甲類に入学、在学中に父の死に遭う。弟・忠夫は青南国民学校6年生、妹・澄子は山脇高女を卒業直後、正子は同校在学中であった。義正は父・五十六の国葬の際には喪主を務めている。その後、東京帝国大学農学部に進学した。 以後、東大に籍を置いたまま父の願いであった海軍に志願しパイロットを目指したが、近眼もあり海軍整備予備学生(第10期)として終戦を迎えることとなる(この時代のことは後述)。戦後は大学に復学、東大大学院を経て製紙会社などに勤めた〔著書『父・山本五十六』(光文社・カッパブックス 1969年 / 恒文社 2001年)〕。 残された母・礼子は保険外交員や、他の残された将官未亡人と共に五十六の元部下・黒島亀人の必ずしも上手くいってはいなかった会社に役員待遇で迎えられていたが、食えるほどの事業ではあったようである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本義正」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|