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山本覚馬 : ウィキペディア日本語版
山本覚馬[やまもとさとしば]

山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま、文政11年1月11日1828年2月25日) - 明治25年(1892年12月28日)は、幕末会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。相応斎〔『日本近現代人名辞典』、1113頁〕。
== 生涯 ==

=== 武人の時代 ===
会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として〔、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久〔。幼名を義衛と称し、を良晴といった〔。
4歳で唐詩選五言絶句を暗唱、藩校日新館に学んで頭角を現す。22歳で江戸に出て武田斐三郎勝海舟らと佐久間象山の塾に入る。弓馬槍刀の師伝を得、23歳頃には藩主・松平容敬より賞を受けた。25歳で再び江戸に出て、大木衷城蘭書を学んだほか、江川太郎左衛門に師事して洋式砲術の研究を深めた〔『日本人名大事典』、397頁〕。28歳でいったん会津に戻り日新館教授となり、蘭学所を開設して教授になるが〔、守旧派批判により1年間の禁足処分になる。しかし初志を貫き、軍制改革を訴えて、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢される〔。文久2年(1862年)、京都守護職に就任した藩主・松平容保に従いに上り、黒谷本陣で西洋式軍隊の調練に当たるとともに、洋学所を主宰し、在京の諸藩士に洋学の講義を行った〔。
元治元年(1864年)、砲兵隊を率いて参戦した禁門の変において勲功を挙げ、公用人に任ぜられる。これにより覚馬は、幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げるが、不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になる。失明については、禁門の変での負傷、また持病の白内障の悪化等が原因とされている。失明という障害を負いながらも、暗殺された象山の遺児の世話を勝から頼まれて引き受けたほか、西周を紹介され、西洋事情の見聞を広めたのもこの頃である〔。のちに覚馬は西の主著『百一新論』を出版した。
慶応2年(1866年)12月頃、会津藩士の中沢帯刀とともに長崎へ行き、ドイツの商人カール・レーマン鉄砲の購入交渉を行う〔荒木、118p.〕。そして翌慶応3年(1867年)3月には、紀州藩のためにシュンドナールドゲベール銃を3,000挺、4月には会津藩・桑名藩のためにシュンドナールドゲベール銃1,300挺を購入するという約定を取り交わした。
さらに同じ頃、兵庫でレーマンと会津藩家老・田中土佐との会見を斡旋した〔荒木、107 - 108p.〕。
この際レーマンの援助で、兵庫に造船所と武器工場を建設する計画も持ち上がったという〔。また、長崎滞在中、覚馬は西洋式の近代病院「精得館」で、オランダ人医師アントニウス・ボードウィンから眼の診察を受けている〔安藤、276p.〕。一方で、赤松小三郎を介して、小松清廉西郷隆盛薩摩藩と幕府の協調も模索していたが、赤松は暗殺されてしまった〔「さつま人国誌 会津藩士・山本覚馬と薩摩藩(下)」 『南日本新聞』2013年5月20日〕。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い(この戦いで弟の三郎が戦死)に際しては京に残り、薩摩藩に捕われて同藩邸に収容されたが〔、同藩首脳部はその人物の優秀さを知っており、決して粗末に扱わなかった。この幽閉中に建白書『管見』を口述筆記し薩摩藩主・島津忠義に上程〔『日本近現代人名辞典』、1114頁〕、これを読んだ小松、西郷らはますます敬服、一層待遇を良くしたという。明治元年(1868年)、仙台藩邸の病院に移され〔、ここで岩倉具視の訪問を受け、翌年釈放された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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