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山瀬 功治(やませ こうじ、1981年9月22日 - )は、北海道札幌市出身〔のサッカー選手。Jリーグ・京都サンガF.C.所属。ポジションはミッドフィールダー。元日本代表。 元サッカー選手の山瀬幸宏は弟。父はサラエボ冬季五輪にバイアスロンで出場した山瀬功。 == 来歴 == 小学校時代はSSS札幌サッカースクールに所属し、同級生に赤井秀一と畠山昌人がいる。SSS札幌で頭角を現したのち、中学時代には単身ブラジルへサッカー留学をする。その後、北海高校へ進学した。1学年後輩には北野貴之がいる。1999年には強化指定選手としてコンサドーレ札幌に登録された(トップでの試合出場はなし)。 2000年、札幌に入団。同年、北海高校から系列の北海学園大学経済学部に進学。二足の草鞋を履く生活。2000年3月にはユース代表に初選出される。5月4日の湘南ベルマーレ戦でプロ初出場、Vゴールを決める。J1に昇格した2001年には主力として24試合に出場しチームのJ1残留に貢献、Jリーグ新人王に輝いた。2002年にはチーム史上日本人として初めて背番号10を背負い副主将に任命されるも、シーズン途中に右膝靭帯断裂の重傷を負う。 2003年、浦和レッドダイヤモンズに移籍。チームをナビスコ杯優勝に導く。 2004年、アテネオリンピック最終予選に出場するが本大会には落選。クラブでは初のハットトリックを達成するなど活躍するも、今度は左膝靭帯断裂の重傷を負う。 2005年には札幌時代の恩師である岡田武史が指揮を執る横浜F・マリノスに移籍した。しかし、今度はヘルニアに悩まされる事となり、コンディションが完全に戻ったのは2006年シーズンの中盤以降となった。 2006年8月5日、キリンチャレンジカップのトリニダード・トバゴ代表戦の追加メンバーとして初めてA代表に招集され、8月9日に初出場。 2007年シーズンには横浜FMの副主将に任命され、8月22日に約1年ぶりの代表復帰となったカメルーン代表戦で代表初得点(A代表通算900得点目)を挙げ、J1リーグ戦で自身初の2桁得点を挙げた。 2008年にはコンスタントに代表に招集されるようになった。とりわけボスニア・ヘルツェゴビナ戦では2ゴール1アシストを記録し横浜FMの同僚である中澤佑二とともに恩師岡田監督を盛り立てた。第4節のFC東京、第6節の柏レイソル戦でキレを見せるが、5月ごろから右踵を痛めチームも失速。第24節ヴィッセル神戸戦で右足首を捻挫してからは出場機会が激減した。 2010年に代表復帰を果たしたが、11月28日にクラブから戦力外通告を受けたと自身のブログで発表した。 2010年12月25日、川崎フロンターレへの移籍が発表された。契約期間は2011年2月1日~2013年1月31日の2年間である。 2013年、京都サンガF.C.へ完全移籍。2014年に主将を務めた〔2014シーズン キャプテン決定のお知らせ 2014年2月20日 京都サンガF.C.公式サイト〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山瀬功治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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