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山田延男 : ウィキペディア日本語版
山田延男[やまだ のぶお]
山田 延男(やまだ のぶお、1896年明治29年〉6月4日 - 1927年昭和2年〉11月1日)は、日本科学者フランスのラジウム研究所(後のキュリー研究所)で物理学者であるマリ・キュリーに師事し、その長女の物理学者イレーヌ・ジョリオ=キュリーらと共に放射能の研究に貢献。研究に伴う放射線障害により、31歳の若さで死去した。ラジウム研究所に留学した最初の日本人であり、放射線化学研究の犠牲となって死去した最初の日本人とされる〔。
== 生涯 ==
1896年明治29年)、兵庫県神戸市に生まれる(本籍地は岐阜県岐阜市木田)。父親の仕事の都合で小学校から旧制中学校までを台湾で過ごし、学校での成績は常に首席であった。後に日本本土に移り、1916年に東京高等工業学校(後の東京工業大学)を卒業後、東北大学理学部に入学して化学を専攻。大学でも抜群の成績をおさめた〔。大学卒業後は同大学の講師としての勤務後、東京帝国大学(後の東京大学)航空研究所に助教授として赴任〔。東京大学出身でない者としては異例の出世であった〔。当時、同研究所は軍事に役立つ研究が推進されていたこともあり、1923年大正12年)、山田は27歳にして日本国政府により、フランスへ派遣された〔。
フランスでの山田は、ラジウム研究所でマリ・キュリーに師事。同研究所で実験助手であったマリの長女イレーヌの共同研究者となり、トリウムポロニウムから放出される放射線の飛程の研究などを行い、単独論文をいくつかと、イレーヌとの共同論文を書き上げた〔。その研究ぶりはマリやイレーヌらから、高い評価を受けた(後述)。
1926年に日本へ帰国。フランスで吸収した最新技術による日本国内での活躍が期待されていたが、2年半の間の放射線研究による放射線障害後述)に体を侵されていた山田は、帰国時点ですでに健康を損なっており、帰国直後に入院。病床にありながらもフランス滞在中の研究報告を提出したことで、東京帝国大学の理学博士号を異例の若さで授与された〔〔。その後も復帰を目指して必死に闘病生活を送ったが、その甲斐もなく翌1927年昭和2年)、31歳の若さで死去した〔。死の前月には東京帝国大学の教授に任命され、従六位を授けられている〔。
戦前の日本は放射能研究の範囲が狭かったため、日本国内ではマリ・キュリーの偉業とは対照的に、山田の留学や死についてほとんど知られていなかった〔〔〔。後に山田の息子の山田光男(日本薬史学会)が、1990年代以降に父の個人史解明に本格的に取組んだことで、上記のような詳細な生涯が明らかとなった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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