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山田 文右衛門(やまだ ぶんえもん)は、天明年間に能登国から蝦夷地に進出した商人。「文右衛門」は当主によってたびたび襲名されている。 特に10代目は、本格的な昆布養殖の創始者として名高い。 == 歴代 == 山田家はもともと能登国羽咋郡神代(かくみ)村で船主船頭を営んでいたといわれる。 6代目までは女子しか生まれず、娘婿を養子として家督を相続させてきたが、7代目から男子が生まれるようになり、実子相続に切り替わった。 ;7代目・山田文右衛門 :神代村の漁師・又一の次男として生まれ、阿部屋村の村山甚右衛門が親元となる。天明年間(1781年 - 1789年)に松前藩福山へ渡る。 :1787年(天明7年)、6代目栖原角兵衛が場所請負人となっていた留萌の支配人を任せられる。この両者の関係について、山田家が船で昆布輸送を手がけていたことから、栖原屋との縁ができていたのではないかといわれる。 ;8代目・山田文右衛門(有智→喜右衛門) :妻は蠣崎氏出身。7代目の後を継ぎ、栖原屋のもとで留萌・勇払場所の支配人を務めた。 :1807年(文化4年)には、アイヌを雇って留萌からオシラリカまで約100キロメートルの道路を整備している。 :1821年(文政4年)、蝦夷地の幕府直轄化に伴って廃止されていた場所請負制が再開すると、栖原屋の保証を得て勇払場所の請負人となる。次いで1822年(文政5年)には沙流場所を、1828年(文政11年)には厚岸場所も請け負った。 :家督を9代目に譲った後は喜右衛門を名乗り、江戸の深川で隠居した。 :1830年(文政13年)、病のため箱館にて死亡。享年66。 ;9代目・山田文右衛門(喜長) :もっぱら江戸で活動しており、蝦夷地の土を踏むことはなかった。享年44。 ;10代目・山田文右衛門(清富) :8代目の弟・市郎右衛門の次男。9代目の長男が11歳で夭折したため、9代目の養子となって家督を継いだ。 :1856年(安政3年)、千歳に米300俵を備蓄した功績により、当時蝦夷地を直轄領としていた幕府から苗字帯刀を許される。 :1857年(安政4年)、箱館奉行の依頼による銭函 - 千歳間の道路開削を他の商人らとともに引き受け、島松 - 千歳間を担当した。 :1858年(安政5年)、樺太漁場の開発に名乗りを上げて差配人並に任じられ、私費を投じて東海岸に数か所の漁場を開いた。しかし開発の中心役だった松川弁之助らの撤退に伴い、1864年(元治元年)の漁を終えると、後任の伊達林右衛門・栖原半七に漁場を譲った。 :昆布の養殖を始めたのは1860年(万延元年)のことで、昆布が育たない沙流の海に、切り出した100個の石をそれぞれ縄で縛って沈め、昆布が根付くようにしたという。また別の逸話では1862年(文久2年)6月、沙流のホロナイ海岸を視察中に陶器片に根付いた昆布を見て、天然の岩場でなくとも昆布が育つことを知ったと伝えられる。 :1863年(文久3年)には本格的な養殖試験を開始した。箱館から呼び寄せた石工12人それぞれに雇ったアイヌ3人ずつを組ませ、沙流太川河口近くの山から2万7000個の石を切り出し、沙流沖に沈めた。このときの石は多くが海底の砂に埋もれてしまったが、埋没を免れた石には良質の昆布が育っていた。そこで次は石が埋もれないように投入箇所を絞った上で、1866年(慶応2年)までの3年間に毎年5万個の石を沈めた。 :養殖技術の実用化に成功すると、10代目・文右衛門は昆布事業を3男の文治に任せ、請負場所は親類の榊富右衛門に託して、自らは隠棲した。 :1881年(明治14年)、明治天皇の函館巡幸の折、昆布養殖の功績を称えて賞状を与えられる。 :1883年(明治16年)、勇払村にて死去。享年64。 ;11代目・山田清次(文治) :父の跡を継いで、昆布養殖事業をさらに拡大した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田文右衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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