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山田 文雄(やまだ ふみお、1898年 - 1978年)は、昭和期の経済学者。東京帝国大学経済学部教授、愛知大学第7代学長。 == 人物 == 東京生まれ。父は三井鉱山神岡鉱山事務所長・工学博士の山田文太郎。海軍兵学校、第一高等学校を経て東京帝国大学経済学部卒業。大学院に進み河合栄治郎に師事。京城帝国大学予科講師、同大学法文学部助教授を経て、1930年東京帝国大学経済学部助教授、1931年教授となり工業政策を担当する。 1939年、平賀粛学により河合栄治郎に殉じて木村健康助手とともに辞職。同年、鶴見祐輔の運営する太平洋協会に入り調査部長となる。 戦後は1947年東京都副知事を経て、1950年愛知大学法経学部教授。1969年から1970年の大学紛争時には同大学学長を務める。 また、河合門下の中心として長尾春雄、木村健康、土屋清、石上良平、関嘉彦、猪木正道らと社会思想研究会(出版部門は社会思想社)を立ち上げ、「哲学と実践との仲介たる社会思想」の研究・普及に努めた。 1978年8月16日死去。墓は寛永寺谷中墓地。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田文雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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