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山田 隆裕(やまだ たかひろ、1972年4月29日 -)は、日本の元サッカー選手、実業家。選手時代のポジションはFW(ウイング)、MF(サイドハーフ)。 ==来歴・人物== 大阪府高槻市で生まれる。小学校3年生の時、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に転居。転入した市立高部東小でサッカーに出会う。6年生の時に清水FCの一員として全日本少年サッカー大会に出場しベスト8進出。中学3年生の時には東海選抜に選出され、全日本選抜中学生サッカー大会で優勝を経験した。またサッカー界きってのボクシング・ファン、小学生時代は近所に大阪帝拳ジム在り何度も見学し当時の世界王者渡辺二郎に憧れ、二郎の後輩の辰吉丈一郎とも親交有る 1988年に清水市立商業高校(現:静岡市立清水商業高等学校)へ進学すると1年次からレギュラーに定着し、同年の全国高等学校サッカー選手権大会決勝の市立船橋高校戦では決勝点をあげる活躍で優勝に貢献した。俊足と巧みなステップを活かした快速フォワード(ウインガー)として1989年と1990年に2年連続高校総体、全日本ユース選手権制覇などに貢献し、高校No.1選手と評された。 また高校2年次から日本ユース代表に選出されるなど、当時は同期のチームメイトで後に日本代表の10番を背負った名波浩よりも知名度は高く、将来も嘱望されていた。 高校卒業後の1991年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に入部。日産でもドリブルを武器に早々に活躍を見せ、同年の天皇杯決勝・読売クラブ戦では途中出場からダメ押しとなる4点目のゴールを決め優勝に貢献した。当時の日産のチームメイトだった木村和司も、山田のドリブルを認めていた程であった。 1992年にはハンス・オフト監督の指揮する日本代表に選出。1993年Jリーグ開幕節では欠場もJリーグ黎明期から活躍し、甘いマスクで人気で獲得、写真週刊誌でタレントとの交際が追いかけられるなど若手スターであった。 しかし日本代表への参加にあまり積極的でなく、93年10月にカタールのドーハで開催された94年米国W杯最終予選メンバーに選出されたが参加を辞退。1994年9月27日のオーストラリア戦を最後に代表から遠ざかった。 その後1998年に京都パープルサンガ、1999年にヴェルディ川崎を経て、2000年にJ2のベガルタ仙台に移籍したが、同年に一度は現役を引退しながらも復帰。2001年には横浜M時代に指揮を受けた清水秀彦監督の下でJ1昇格に貢献した。仙台時代の応援歌の原曲はBOØWYの「Dreamin'」2003年シーズン途中で現役引退した。 引退後、仙台市内で移動式メロンパン専門店を開業している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田隆裕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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