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株式会社山田養蜂場(やまだようほうじょう)は、岡山県苫田郡鏡野町に本社を置くミツバチ産品の通信販売を行う企業である。 == 特徴 == 岡山県の県北部、中国山地の中央部にある苫田郡鏡野町を本社とし、健康食品や化粧品のミツバチ産品を製造・販売している。健康食品、はちみつ、化粧品を合わせ、取扱商品は200種類以上ある。 山田政雄が1948年(昭和23年)に始めた養蜂場を出発点としており、全国の消費者に直接通信販売する方式が受け、平成に入って大きく成長。 山田政雄は、所在地の苫田養蜂組合の組合長を長年務め、社長の山田英生は学卒後サラリーマン生活を3年経験した後、農業後継者として養蜂家に就農した。 同社の通信販売は昭和30年代後半から始まり、主に参加した全国の百貨店の物産展で販売した顧客からの注文に応える事から始まった。同社の通信販売会員数は、1988年(昭和63年)時点で約6千名の会員数が存在していた。 1988年(昭和63年)10月27日、当時社長であった山田政雄が脳溢血により倒れ、2日後の10月29日には自宅を全焼する火災に遭遇した。 その後、当時専務であった山田英生が養蜂場の経営を引き継ぎ、通信販売部門の拡大に特に力を入れるようになっていく。 同社の通信販売は、当初は郵便局の「ふるさと小包」や新聞の「記事体広告」を中心として新規顧客が獲得されてその後、新聞の「純広告」、雑誌広告、折込広告、テレビ通販へと拡大され、それに伴って売上げも急成長していった。 同社の売上げは、山田政雄が倒れた1988年(昭和63年)に1億円だったものが、1998年(平成10年)には100億円を突破。 また平成10年頃からは、一般に流通する消費者情報を元にダイレクトメールを送付したり、電話による販促活動を行ったり、折り込みチラシを入れたりして顧客獲得を行っており、その多様な営業活動がその後の成長を支えた。 同社では、ローヤルゼリーを製造販売し始めたいきさつとして元々、山田政雄の娘の差栄が先天的な重度の心臓疾患を持って生まれ、少しでも健康になってほしいとの想いから山田政雄がローヤルゼリーの研究を始めたとしており、家族愛に基づくこの逸話を理念とする。 しかし彼女はその後、14歳の時に岡山市内の病院で行った心臓外科手術で他界した。 また、その理念をもとに環境や教育のメセナ活動にも力を入れており、同社が主催する童話絵本コンクールやミツバチ文庫がある。 ミツバチ文庫は、全国約23000の小学校に1校当たり12冊の図書を寄贈(2008年度実績)するもので、1999年(平成11年)度より毎年継続されている。 国内・海外の養蜂家と提携しており、同社が販売するはちみつの国産対海外産の比率が、国産6に対して海外産が4であるとしていることから、日本で最大規模の養蜂家のネットワークに成長。 同社の海外産はちみつ一番の売れ筋は、同社が独自に高級ワインと同じ冷蔵コンテナでの輸入ルートを構築したというルーマニア産アカシアはちみつである。 ローヤルゼリーの生産にも国内外で注力しており、海外から輸入されているローヤルゼリーのシェア率が約40パーセント。 同社では、国内でもローヤルゼリーの生産に注力しており、国産ローヤルゼリーの生産高3000キロの約30パーセント1000キロを同社で生産している。 岡山県下最大規模のイチゴのハウスを建設。ミツバチに受粉させることにより経営する「ミツバチイチゴ」の生産に注力したり、レンゲはちみつを採集した田んぼで「れんげ米」を生産する、農業生産法人の活動にも注力している。 また、研究開発にも注力しており、みつばち健康科学研究所の設立や免疫分析研究センターを設立している。 1億円の研究助成を行うとされる「みつばち研究助成基金」の開催など研究開発や若手の研究者の育成にも注力している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田養蜂場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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