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山町筋(やまちょうすじ)は、富山県高岡市中心部にある、伝統的建造物が数多く残る町並みの名称。山町とは、高岡城下の旧北陸道沿いに発展した商人町で、高岡御車山祭の「御車山」を保有する10か町を指す。御車山とは、豊臣秀吉の使用した御所車が前田利長より町民に与えられ、各町が手を加えたものである。明治に入り大火で町の大部分が被災した後、富山県の法令に基づき、土蔵造りの防火建築が建てられ、現在も数多く残る町である。2000年(平成12年)12月には、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 == 歴史 == 1609年(慶長14年)、加賀藩の第2代藩主・前田利長が高岡城を築き入城、高岡の町を開いた。町へは町人も移住してきたが、町の繁栄を図るため北陸道の道筋を城下内に通るように変更し、そこに碁盤の目状に京間で40間(約75m)四方の町を35町割り振った。これらは「本町」と呼ばれ、その中で利長より御所車(御車山)を与えられた町を山町といい、山町10か町はその中心部に位置している。 ;山町10ヶ町 通町(とおりまち)、御馬出町(おんまだしまち)、守山町(もりやままち)、木舟町(きふねまち)、小馬出町(こんまだしまち)、源平町(げんぺいちょう)、三番町(さんばんまち)、一番町(いちばんまち)、二番町(にばんまち)、坂下町(さかしたまち) 1614年(慶長19年)に利長が亡くなった後、江戸幕府による1615年(慶長20年)の一国一城令により高岡城が廃城となり、家臣達も金沢へ引き上げたことにより城下町として栄えた高岡の町は荒廃が進んだ。そこで高岡町民に第3代藩主・前田利常が、1620年(元和6年)に町外転出禁止を命じ、廃城になった高岡城に藩の米、専売品である塩の蔵を建て、中心的地集積地とし流通拠点に、魚介鳥類を河原町の問屋に集め、藩内の流通拠点に、砺波地方特産の布製品の検印をすべて高岡で受けるようにするなどした。 また利長が町発展のため、1611年(慶長16年)金屋町を鋳物(銅器)生産の町として開いたが、利常はこちらの生産・流通にも力をいれるなど、商工業の振興に力を入れ城下町から商工業都市として発展し、加賀藩の中で金沢に次いで栄えた。 明治時代に入り、1883年(明治16年)高岡は富山県となり、1889年(明治22年)4月1日の市制施行では全国31都市のひとつとして高岡市が誕生した。この時代には米やニシン肥料の取引所開設による流通拠点として、また高岡銅器も隆盛を迎えた。1887年(明治20年)以降は、新たに紡績業や電灯会社が設立されたり、高岡に鉄道の開通など、日本海側有数の商工業都市となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山町筋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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