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山科勝成[やましな かつなり]
山科 勝成(やましな かつなり、生没年不詳)は、16世紀頃に存在したとされる人物。「ロルテス」というイタリア人(ローマ人)が蒲生氏郷によって士分に取り立てられ、「山科羅久呂左衛門勝成」と改名したと伝えられる。一方で登場する史料の信頼性に疑問が呈され、ひいては山科勝成なる武士の実在についても否定的な見解がある。 == 動向 == 蒲生家伝来とされる史料「御祐筆日記抄略」によれば、天正5年(1577年)に「ロルテス」と名乗るローマ人が紹介状を携えて蒲生氏郷に召し抱えを求めてきた。紹介状には、ロルテスは軍人にして兵法はもとより天文・地理も極めて「張良、孔明をも凌ぐ」と記され、氏郷は家老一同との会議においてその可否を諮る。喧々諤々の会議となったが、最終的には扶持を与えて召し抱えることに決まり、ロルテスは小銃や大砲など武器の製作に従事することになり、名も「山科羅久呂左衛門勝成」と改めた〔辻(1942)pp.250-262〕。 以後、勝成は氏郷の麾下で各戦役に参加、小牧・長久手の戦いにおける峯城攻略戦では5番首を挙げた〔。さらに加賀野井城攻略戦では小山から大砲を操って落城へと追い込み、また逃亡を図る城兵の殲滅にも加わり、ひとりを斬り伏せ、ひとりの首を取った〔。それから7日後、勝成は氏郷の家臣12人と共に武器の買い付けのためローマへ遣わされる。2年半を経て、一行は彼地の「大僧正」より贈られた一巻の書物と、買い入れた鉄砲30挺を携えて帰国。大いに満足した氏郷は、勝成に500石を加増した〔。以降、氏郷は他の者を遣わしながらローマとの通交を続けていく〔。 帰国後、再び氏郷の麾下に入った勝成は、豊臣秀吉による九州征伐の支戦・巌石城攻略戦においてやはり大砲を用いて城壁を破壊し、城方を壊滅に追い込んだ〔。さらに小田原征伐では鉄棍棒を手に敵の先陣へ突入し、小川新左衛門なる者を討ち果たした〔。 これを最後に「御祐筆日記抄略」から勝成の動向は消える〔。外務省が1884年に編纂した『外交志稿』によれば、文禄元年(1593年)、氏郷は朝鮮に渡るため軍艦の建造を望み、西洋から船大工の調達を図って勝成らを派遣したが、遣欧船はその途上で難破して安南国(ベトナム)に漂着し、勝成は現地人に殺害されたという〔『外交志稿』pp.430-431〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山科勝成」の詳細全文を読む
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