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人康親王[ひとかんしんのう] 人康親王〔なお、仁康親王に作る場合があるが、これは「人康」を「ひとやす」と訓んだために起こった誤り(中山太郎『日本盲人史 正篇』、八木書店、1976年)〕(さねやすしんのう、天長8年(831年) - 貞観14年5月5日(872年6月14日))は、平安時代前期の皇族。仁明天皇の第四皇子。母は贈皇太后・藤原沢子(贈正一位太政大臣・藤原総継の娘)。光孝天皇の同母弟。官位は四品・弾正尹。 == 経歴 == 承和12年(845年)元服〔『続日本後紀』承和12年2月16日〕。承和15年(848年)四品に叙せられ〔『続日本後紀』承和15年正月7日〕、翌嘉祥2年(849年)上総太守に任ぜられる〔『続日本後紀』嘉祥2年閏12月9日〕。のち文徳朝では仁寿2年(852年)弾正尹に転任し、斉衡4年(857年)常陸太守を兼ねる〔『日本三代実録』貞観元年5月7日条〕。 清和朝に入ると、貞観元年(859年)に病気を理由に出家して、法性と号した(最終官位は四品守弾正尹兼行常陸太守)。少年の頃より大乗道に帰依したいとの意志を持っていたという〔。出家後は諸羽山の麓、現在の京都府京都市山科区四ノ宮に山荘を造営して隠棲し、山科宮と称した。この山荘は川を走らせ滝を造るなど趣深く造られていたという〔『伊勢物語』78,山科の宮〕。なお、四ノ宮の地名も親王が仁明天皇の第四皇子であった事に因むとする説がある。 貞観6年(864年)人康親王家が朝廷より借用していた、絹130疋・綿300屯・調布400端・銭3300貫文の返済が勅により免除されている。貞観14年(872年)5月5日薨去。享年42。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「人康親王」の詳細全文を読む
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