|
山科本願寺の戦い(やましなほんがんじのたたかい)は、天文元年(1532年)8月23日 - 24日にかけて行われた細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍と浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。山科本願寺合戦(やましなほんがんじかっせん)ともいう。 == 開戦までの経緯 == 飯盛城の戦いで勝利した一向一揆は余勢を駆って大和に侵入、興福寺、春日神社を襲撃した。この動きには、飯盛城の戦いで一向一揆衆に援軍を要請した細川晴元も脅威を覚えた。 晴元だけではなく京都の民も脅威を抱きはじめたころ、「一向宗が京に乱入して法華宗を攻撃する」という風説が流れた。晴元方の摂津国人茨木長隆による檄文もあり、法華門徒は直ちに武装し、天文元年(1532年)7月28日、法華一揆が蜂起した。これには熱心な法華信者で、飯盛城の戦いで自害した三好元長の仇打ちという側面もあったと考えられている。法華一揆の蜂起により、晴元は直ちに法華一揆衆と手を結んだ。 同年8月2日、晴元方である木沢長政に対して一向一揆衆が押し寄せが、木沢軍は逆に一向宗の寺々や堺の道場に放火した。これに対して和泉、河内、摂津、大和4ヶ国の一向一揆衆が一斉に立ち上がり、晴元のいる堺へ押し寄せ木沢軍は迎え撃った。この時の様子を『二水記』によると、 と記している。ここにある「昨日」とは8月2日の事で、「諸軍勢」とは本願寺軍を指している。証如と一向一揆衆が連帯している情報を伝え、この動きに反感をあらわにしている。 堺で戦端が開かれたころ、京でも法華一揆衆が8月7日に軍事行動を開始した。この時法華一揆衆を率いたのが柳本賢治の家臣山村正次であった。この状況を時系列的に見ていくと、 *8月7日 - 10日:法華一揆衆数千兵が集結 東山、山科周辺を打廻り *8月15日:清水寺周辺の東山に布陣 *8月16日 - 17日:東山山麓で法華一揆衆1万、一向一揆衆数千が激突 法華一揆衆が勝利 *8月19日:摂津一向一揆衆二千が山崎に布陣、法華一揆衆が出軍し西岡周辺で激戦、法華一揆衆が勝利 このように京都・西岡を抑えた法華一揆衆は、山科本願寺への総攻撃の準備を整えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山科本願寺の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|