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山科 李蹊(やましな りけい、元禄15年(1702年) - 延享4年8月8日(1747年9月12日))は、江戸時代中期の医者。名は元富。字は子潤。通称は宗安。 == 人物 == 京都の出身〔『扶桑画人伝 巻之四』29丁表 〕。山科広安の子。朝廷の侍医の家柄で、16歳で法橋に叙せられたのを皮切りに、法眼、法印と進み、仙寿院の号を賜与された〔『大日本人名辞書 下巻』2743頁 〕。 多芸な人物で、特に墨竹画については、、浅井図南、御園中渠とともに「平安の四竹」と称された〔〔。 延享4年(1747年)、46歳にて没した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山科李蹊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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