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山西作戦 : ウィキペディア日本語版
太原作戦[たいげんさくせん]

太原作戦(たいげんさくせん)とは、日中戦争中の1937年昭和12年)9月から11月までの間、日本の北支方面軍及び関東軍部隊によって行われた、山西省太原への進攻作戦である。太原攻略戦山西作戦(さんせいさくせん)などとも呼ばれる。中国側呼称は太原会戦
== 背景 ==
1937年(昭和12年)の盧溝橋事件後、日本軍は北支那方面軍主力の平漢線津浦線南下作戦を側面援護するため、8月中旬から第5師団関東軍による察哈爾作戦を開始した。9月中旬、大同付近(内長城線外)を占領して作戦が一段落すると、方面軍司令部は広霊の第5師団に対し、河北省保定へ転進して平漢線沿いの作戦に参加するよう命令した〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、335-336項。〕。
方面軍の催促にもかかわらず、第5師団はすぐに転進しようとはしなかった。この時、閻錫山の山西軍(第2戦区軍)は内長城線沿いに集結して防御陣地を強化中であった。第5師団長板垣征四郎中将は、この敵軍を攻撃して長城を突破し、中国軍主力に打撃を与えて転進を容易にしようと決心していた〔。参謀本部や方面軍では、山西省を攻略するか否かについて意見が分かれていたが、第5師団との連絡は途切れがちで、師団の実情がはっきりわからなかった〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、338-339項。〕。また、中央は関東軍部隊をこれ以上前進させるつもりはなかったが、第5師団に同調している関東軍察哈爾(チャハル)派遣兵団 (長:東條英機中将〔東條英機中将(関東軍参謀長)は、9月22日、新京に帰還し、笠原幸雄少将(同参謀副長)に交代。〕)は積極的に内蒙や山西を攻略しようとしていた〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、317-318項。〕。
9月19日、板垣中将は''「北支においてはおおむね綏遠―太原―石家荘済南青島の線を占め、ここに包合する資源を獲得し、そこに住む一億民衆を同僚として新北支政権を結成するを可とす」''という意見を、私信として多田駿(参謀次長)・石原莞爾(参謀本部作戦部長)・寺内寿一(北支那方面軍司令官)の3人に発信した〔。参謀本部では、山西作戦を有利と考える武藤章作戦課長が、不拡大派で作戦に難色を示す石原と多田を説得した〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、339-340項。〕。板垣との関係が密接である石原部長は、滅多に手紙を書かない板垣からの熱心な意見に動かされた、と後年回想している〔森山、120-121頁。〕。参謀本部作戦課では、板垣の意見した地域を占領確保する考えに固めようとしていた〔。
上海戦線へ大規模な増援を派遣する事態となって、石原作戦部長は辞表を提出した。不拡大派の石原が辞任した3日後、太原攻略の大命が参謀本部から下されることとなった(10月1日)〔森山、120-121頁。〕。一方、北支那方面軍司令部でも第1課が山西作戦を要望していたが、第5師団を転進させるという寺内軍司令官の考えは変わらなかった。ところが10月1日、参謀総長から突如として太原攻略の命令を受領したため、すでに長城平型関を突破していた第5師団に対し太原攻略作戦の準備を命じた〔〔防衛研修所戦史室『支那事変陸軍作戦(1)』、369項。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Taiyuan 」があります。



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