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山西 尊裕(やまにし たかひろ、1976年4月2日 - )は、静岡県静岡市の元サッカー選手でサッカー指導者。現役時代のポジションはDF。 == 来歴 == 1995年にジュビロ磐田に入団。名波浩や福西崇史、清水範久らと同期である。U-19代表の経験があったが、なかなか出番がなかった。しかし3年目の1997年、シーズン前のキャンプでフェリペ監督にその粘り強い守備が認められ、開幕からレギュラーポジションをつかむとそのままトップチームに定着した。とはいえその後も服部年宏とのレギュラー争いではなかなか優位に立てず、左利きなのに右サイドバックで起用されたこともあった。 磐田が3バックになってからは、攻撃力を磨いて左ウィングとして活路を見いだそうとしたが首脳陣の信頼を得るプレーはできず、守備を生かしたストッパーとしてならチャンスがあるだろうと研鑽。ここでスピード面に難のある大岩剛に代わってレギュラーをつかむことに成功し、2002年のリーグ完全制覇や2004年元日の天皇杯制覇などには、ハイボールへの対応には難があるものの、持ち前の粘り強い守備と精度の高いロングボールを生かした攻撃の基点として活躍した。 2004年シーズンオフ、磐田が茶野隆行や金珍圭を補強したこと、また清水エスパルス監督に就任した長谷川健太から左サイドバックとして熱心な誘いがあったことを受けて清水へ移籍した。攻守に安定した左サイドバックとしてスタメンに定着し、移籍2年目にして早くもキャプテンに指名されるなど周囲の信頼も厚い。 2007年、新加入した同じ左サイドバックの児玉新にレギュラーポジションを奪われたため、出場機会が激減。 2008年も状況が変わらず、12月、自身のブログで清水エスパルスを退団することを示唆。2009年1月27日に現役引退が発表された。 2009年より、古巣のジュビロ磐田ユース(U-18)コーチに就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山西尊裕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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