|
山角 定勝(やまかど さだかつ、享禄2年(1529年) - 慶長8年(1603年)は戦国時代・安土桃山時代の武将。後北条氏家臣。刑部左衛門尉、後に紀伊守と称した。父に山角定次。子に山角政定、山角盛繁、山角長定、山角正勝。 北条氏政の側近、北条氏直の代に奉行人・評定衆として活躍し、永禄4年(1561年)から天正18年(1590年)まで間に彼が奉じた虎朱印状が多数現存している〔。また、元亀2年(1571年)には相模足柄城の普請奉行を務めている〔。 天正10年(1582年)、徳川家康と氏直が講和し、家康の娘督姫が氏直と婚姻する際に媒酌を務め、天正14年(1586年)には家康への使者として派遣されている〔。 天正18年(1590年)小田原征伐で小田原城が開城した後は氏直に従い高野山に上った。翌19年(1591年)に氏直が没した後は徳川家康に仕えて相模国で1200石を与えられている〔。 隠居してのち慶長8年5月8日に死去、法名は宗覚。墓所は相模国厚木の法雲寺、のちに江戸正泉寺に改葬された〔。嫡男政定、次男盛繁も徳川家康に旗本として仕えた〔。 == 脚注 == == 参考文献 == *『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年、ISBN 4404033168 * 『歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡』(1989年、学習研究社) ISBN 405105151X 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山角定勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|