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山野辺義胤 : ウィキペディア日本語版
山野辺義胤[やまのべ よしたね]

山野辺 義胤(やまのべ よしたね)は、江戸時代中期の水戸藩家老職。
== 生涯 ==
正徳3年(1713年)、山野辺義逵の子として江戸に生まれる。
寛保2年(1742年)、36歳で大寄合頭格となり、延享3年(1746年)大寄合頭上座、老中となって700石。延享4年(1747年)、父・義逵が隠居したため、家督を相続して1万石。同年従五位下に叙され、兵庫頭と称した。寛延2年(1749年)には軍用司、城代となる。
宝暦13年(1763年)、後桜町天皇の即位にあたり、藩主名代として京に使した。明和6年(1769年)、再び軍用掛を命じられる。安永元年(1772年)江戸城内で杖を用いることを許されたが、同6年(1777年)死去。享年65。
諸芸に通じ、硬骨、謹直をもって知られた。学を好んだ義胤は名越南渓などを師としたが、師が町人や低下層の学者であっても謙譲し敬って接したという。
子には恵まれず、はじめ佐伯藩毛利高慶の四男・義聚(図書、扶揺と号す)を養子としたが、家風に合わなかったらしく、のちに離縁。さらに中津藩奥平昌敦の三男・義風を養子とした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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