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山鹿素水 : ウィキペディア日本語版
山鹿素水
山鹿 素水(やまが そすい、生年不詳 - 1857年1月30日安政4年))は、江戸時代兵学者
==略歴==
通称は八郎左衛門、字は子修、名は高補
山鹿流の祖である山鹿素行の女系・津軽山鹿氏の末裔で、始祖から6代目の子孫。
1808年(文化5年)、津軽藩主・津軽寧親に拝謁し家督相続。
1828年(文政11年)、諸国遍歴の旅に出る。唐津・大分の藩士に家伝の山鹿流を教える。大分では豪商・後藤碩田の家を根城にしていたとされる。
変名で京都に在住時、京都守護在番中にあった綾部藩主の九鬼隆都に知られ、教えを授けるようになり、田原藤兵衛と名乗る。
これをきっかけに隆都は山鹿流に傾倒、綾部藩大番寄力の安藤直章は、素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった幕臣の窪田清音と並び学んでいる。〔「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 二.山鹿素水の業績(P217-220)〕
1837年(天保8年)には、山鹿流が定着していた大垣藩小原鉄心に伝授、1843年(天保14年)に綾部藩に招かれ、1845年(弘化2年)、剃髪し素水と号し、素行の武教全書を復刊。
1851年(嘉永4年)には、長州藩吉田松陰肥後藩宮部鼎蔵が入門する。〔「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 二.山鹿素水の業績(P217-220)〕
1855年(安政2年)に幕府講武所を開設、九鬼隆都が総裁、窪田清音が頭取兼兵学師範役に就任する。
幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、素水、九鬼隆都、窪田清音の関係によるものとされる。〔『山鹿素行兵法学の史的研究』P219 〕〔「武士道教育総論」第三章.山鹿素行の武士道論(P155-182)〕
先祖素行の山鹿流を海防問題に有効に活用させたいという試みから、理論よりも実地教練を強調した著書が多い。
1857年(安政4年)、隆都の根城である丹波綾部城下に病没。綾部市神宮寺町上藤山の西福院に眠る。〔歴史群像編集部「全国版幕末維新人物事典」P326〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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