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岡島艶子[おかじま つやこ]
岡島 艶子(おかじま つやこ、1909年1月9日 - 1989年2月4日)は、日本の女優。本名は仁科 つや(にしな-、旧姓は小牧)〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会(編)、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.176〕。 サイレント映画時代のスター女優で、松竹キネマ・東亜キネマ・マキノ・プロダクションなどの作品に出演し、純情かれんな娘役で活躍した。戦後は主に東映の作品で端役として出演した。夫は映画監督の仁科熊彦。娘婿は俳優の川谷拓三、孫は共に俳優の仁科貴・仁科扶紀である。 == 来歴・人物 ==
===生い立ち=== 1909年(明治42年)1月9日、愛知県名古屋市中区桑名町に、父・桃太郎と母・あさの娘として生まれる〔泉沢悟朗『裸にした映画女優』、日本映画研究会、1925年、p.23〕〔キネマ旬報1980、p.47〕。父は東京市の和菓子屋の長男で、後に大谷友四郎の名で歌舞伎俳優となり、名古屋・宝生座の座長を務めて名古屋の団十郎と呼ばれた〔。その後友四郎は妻子を連れて東京へ戻り、6代目尾上菊五郎らからおやじと呼ばれて、劇界の生き字引として重宝がられた〔。母は初め森川家に嫁いで2男1女を儲けたが夫と死別し、大谷と茶飲み友達として再婚した〔。岡島の異父兄である森川貞造も歌舞伎役者となって市川新寿を名乗り、阪東妻三郎とは親友でもあったが、後に吉原の花魁と心中した〔。 幼い頃から舞踊、琴、三味線などを仕込まれ、6歳の時の1915年(大正4年)に新派の伊井蓉峰・河合武雄一派に子役として出るようになり、明治座で初舞台を踏む〔。8歳の時には井上正夫一座に入り、浅草みくに座、赤坂演技座、本郷座の連鎖劇に出演する一方、歌舞伎の小芝居にも子役で出演する〔。この間に泰明小学校に入学している〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡島艶子」の詳細全文を読む
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