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岡崎郁 : ウィキペディア日本語版
岡崎郁[おかざき かおる]

岡崎 郁(おかざき かおる、 1961年6月7日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手内野手)。
現役時代は、一貫して読売ジャイアンツ(巨人)でプレー。引退後の2006年からは、巨人のコーチや二軍監督を務めていた。
== 来歴・人物 ==
大分商業高校でに春夏連続して甲子園に出場。法政大へ進学希望だったが、同年のドラフト3位で巨人に指名され、長嶋茂雄監督の説得により入団。河埜和正篠塚利夫中畑清原辰徳などがいたため出場機会に恵まれなかった。その後、肋膜炎で療養生活を送り、に練習生扱いとなる。
から一軍に定着。1987年には、失策2で守備率.994と遊撃手としてのシーズン守備率の日本記録(当時)を打ち立てるなど、レギュラークラスの働きを見せるも、規定打席到達は果たせないでいた。しかし入団10年目の、当時の監督藤田元司に勝負強いバッティングを見出され、キャンプではサードを中心にファーストもこなすなど、コンバートがなされた。オープン戦で首位打者を獲得し、開幕戦はファーストでスタメン出場。その後、中畑清のケガにより、サードに定着した。その後までは、サードのレギュラーポジションを守った。親友・駒田徳広との「恐怖の6・7番コンビ」は、第2のクリーンナップとして他球団から恐れられ、1989年の日本一、のリーグ優勝に貢献した。1989年からオールスターゲーム・4年連続セ・リーグ三塁手部門ファン投票選出、日本シリーズでは1989年優秀選手、1990年敢闘賞。翌年からは選手会長・主将も務めた。には4番打者も務めた。以降は元木大介の成長、仁志敏久の入団もあり出場機会が減り、に現役引退。
引退後はニッポン放送野球解説者やスポーツキャスターとして活躍。
ニューヨーク・ヤンキースへコーチ留学した後、から巨人の二軍打撃コーチに就任した。この間、東京都千代田区三崎町焼肉店「香おる」のオーナーだった。
は二軍ヘッド兼内野守備コーチを務め、に吉村禎章の後任として二軍監督に就任した。に行われた第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表の監督も務めた。
には一軍のヘッドコーチを担当。シーズン終了当初は、翌シーズンもヘッドコーチを務めることが球団から発表された。しかし11月11日に、球団会長渡邉恒雄によって江川卓の一軍ヘッドコーチ就任・岡崎の降格という人事が決められていることが、当時の球団代表・清武英利による渡邉への告発を通じて明らかになった。これに対して、渡邉は翌12日に、江川に対して正式にヘッドコーチの就任を要請していないことを明言。チームの秋季キャンプ中だった同月15日には、桃井恒和オーナーがキャンプ地の宮崎を訪れたうえで、岡崎に対して一軍ヘッドコーチへの留任を伝えている〔朝日新聞 2011年11月16日〕。球団では、江川のヘッドコーチ就任を「原辰徳一軍監督と渡邉の会談で出た案の一つ」と説明する一方で、清武に対して同月18日付で球団内のあらゆる役職からの解任を通告した。
結局、岡崎はまで一軍ヘッドコーチを担当。からまでは、役職を川相昌弘と入れ替える格好で、二軍監督を務めた。2016年からは、球団の編成本部アドバイザーに就任する予定。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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