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岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府大阪市中央区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。阪神タイガース第31代監督を務めた。 1980年に阪神タイガースへ入団。1995年にオリックス・ブルーウェーブで現役を引退。その後、オリックス・阪神の二軍監督・コーチ・監督を歴任した。オリックス監督退任後の2013年からは、デイリースポーツの野球評論家を務める。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 大阪市東区(現・中央区)玉造で町工場を経営していた父親は、阪神の有力後援者で、村山実・藤本勝巳ら選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った。幼稚園児の頃に、当時のタイガースの三塁手であった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという〔。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。小学5年の時、南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」で本格的に野球を始めた。この入団は「阪神が少年野球チームを持っていなかった」というのも理由だった〔「オリの中の虎」p. 127〕。また父の会社では草野球チームを結成し、岡田自身も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った。岡田の証言によれば、野手は阪神二軍の若手選手だったという。また岡田は少年時代からタイガースの試合を見に阪神甲子園球場へ出かけることが多かったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった〔宝島社『別冊宝島 プロ野球名選手読本』1998年〕。 、明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。3月、村山の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める〔。 1973年、北陽高校に進学し、1年生時には大阪府大会決勝戦(対PL学園)で先制2ランを放つなど活躍し、夏の甲子園に出場。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。3年生の夏は大阪府大会決勝で興國高校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。 早稲田大学野球部のセレクションを受け、15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがオーバーフェンスだったという〔『オリの中の虎』P159〕)という驚異的な打撃をみせて合格した。早大では1年生秋から外野手(レフト)7番でレギュラーに入り、法政大学の江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは三塁手に定着し5番を打ち主軸に定着し、3年秋には三冠王に輝いた。春の大会では主将として東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。また、1978、9年第7.8回日米大学野球では、全日本の4番を全試合任されている。 大学時代の成績と記録は以下の通り。 * リーグ通算88試合出場、309打数117安打、20本塁打、81打点、打率.379 (打点と打率は東京六大学リーグ記録) * 秋季リーグから5季連続でベストナイン * 春季リーグ、対東京大学2回戦で史上2人目のサイクルヒット * 1978年秋季リーグで戦後4人目の三冠王 東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は過熱。1979年秋のドラフト会議の目玉となった。10月29日のプロ入り表明時に「阪神だったら最高ですが、阪急などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名されたときに考えてみる。しかし、フロントがしっかりし、優勝を争える球団なら行きたい」〔朝日新聞1979年10月30日付。〕「巨人、西武は優勝も狙えるし、いいですね」〔スポーツニッポン1979年10月30日付。その発言を受けた当日の同紙の一面見出しは「『巨人もOK』岡田」であった。〕と述べた。もっとも、後年のインタビューでは「ボクは一人っ子だったことで母が「関西に帰ってきて欲しい」と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった」と語っている〔2009年『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝』Vol.11〕。ドラフトでは在阪パ・リーグ3球団を含む6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡田彰布」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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